クジラのベーコンとさらし鯨の酢味噌あえ

 わたしが小学生であった、昭和二〇年代の中頃のことである。わが家での食事でのご馳走はクジラのベーコンであった。鮮やかな赤色に着色されたクジラのベーコンは、食卓を華やかに彩る食品であった。

 ベーコンはクジラでつくるものと信じていたわたしが、本来は豚肉を材料にした食べものであることを知ったのは、中学生になってからのことである。

 その頃、牛肉や豚肉にくらべてクジラの肉は安価だったので、クジラのカツやクジラのステーキ が学校給食の献立によくでてきた。

 日本人はクジラ好きの民族である。旧石器時代や縄文時代からクジラを食べていたことがわかっている。古事記には神武天皇に鯨肉が献上されたことが記されている。肉食が禁じられていた時代でも、クジラは大きな魚とされて食用にされていた。室町時代末の『四条流包丁書』では、食用魚の格付けの、第一位がクジラで、第二位がコイとされている。江戸時代初期の『料理物語』には、一〇種類のクジラ料理が記載されている。

 「鯨一頭 七浦賑わう」と、沿岸漁業ではクジラが漁獲されると大漁に賑わったし、クジラをまつる神社や、クジラの墓もつくられた。  クジラが哺乳類の動物とされる以前の中世ヨーロッパでは、クジラは魚類とされており、肉食が禁じられる四旬節にもクジラを食べていた。

 近世になって、北極海周辺以外のヨーロッパで沿岸のクジラ資源が枯渇するようになると、遠洋漁業による捕鯨がなされるようになった。

 冷凍技術のない時代のことである。長期間の航海のあいだクジラの肉を保存することはできない。捕獲したクジラの肉は捨てて、ヒゲと鯨油を入手する目的での捕鯨がなされるようになった。ヒゲは雨傘の骨やバイオリンの弓の材料とされた。船上でクジラの脂肪を熱して得た鯨油は、高級な機械油や、ダイナマイトの原料になるニトログリセリンや、石鹸、マーガリンをつくる材料として使用されたのである。

 黒潮と親潮が合流する日本近海には多数の魚が集まり、それを追ってクジラがやってくる世界有数のクジラ漁場であった。一九世紀中頃になると、アメリカから日本近海に捕鯨船がやってきてセミクジラの大量乱獲をするようになった。

 その後、アメリカ国内で石油が採掘され、遠洋捕鯨をしないようになると、「クジラを食べる民族は野蛮人である」というようになった。

 戦後復興期から高度経済成長期の日本では、クジラ肉は重要な蛋白源であった。一九六〇年度の日本人一人あたりの肉類消費量は五・二キロで、そのうちクジラ肉が最大の一・六キロを占めた。

 一九七〇年以降は、養豚・養鶏業の発達や輸入の畜肉がおおくなり、日常の食事に肉料理が供されるようになった。しかし、国際捕鯨委員会による商業捕鯨の規制などもあり、日本人は気軽にクジラを食べられないようになる。

 二〇一七年の一人あたりの肉類消費量は三二・七キロで、その内訳は鶏肉一三・七キロ、豚肉一二・八キロで、牛肉はその半分程度、クジラ肉は一人あたりに換算すると0となっている。 久しぶりにクジラを食べたくなり、買い物にでかけた。スーパーを三店のぞいたが、クジラ肉は置いていなかった。プロの料理人がよくゆく食料店で、さらし鯨とベーコンを発見して購入した。 さらし鯨一〇〇グラムが三二二円、ベーコン一〇〇グラム七〇〇円であった。

 一〇〇グラム二〇〇円くらいから買える豚肉のベーコンにくらべたら、クジラのベーコンは高価な贅沢品となったのである。

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