『万宝料理秘密箱』に記載された「金糸卵(きんしたまご)」を再現

 六七五年に天武天皇が仏教理念にもとづいて、太陰歴の四月から九月の稲の耕作期間にウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリを殺して食べることを禁ずる最初の肉食禁止令を制定した。このことから、当時ニワトリを食用にする人びとがいたことがわかる。その後、一二世紀になるまで、肉食を禁じる勅令が何度も出され、おおくの日本人は動物の肉を食べることを罪悪視するようになった。しかし、卵の食用を禁止することを明記した法令はない。

 日本で文字記録がなされるようになった六世紀から一六世紀までの約一〇〇〇年間に、卵を食べたことがわかる記録は、わたしの知るかぎり三例しかない。一三世紀初頭に成立した『古事談』に、ある貴族がゆで卵と塩をもって花見の宴に出席した記録がある以外は、卵を食べることを糾弾する文章である。たとえば、常に卵を食べていた男が、「熱い!熱い!」と叫びながら麦畑を走りまわっていた。村人が助けて聞いたところ、他人にはただの麦畑と見える場所が、この男には火の燃えさかる場所で、そこから逃げだすことができずに走りまわっていたのだという。男の足は焼きただれて、まもなく死んでしまったという。この世で卵を焼いたり、煮て食べた者は、死後に熱い灰が流れる地獄におとされるという、仏教経典が説いていることが、この世で実現した事例であると述べられている。 

 鶏肉と卵を食用にしないにもかかわらず、中世の日本人はニワトリを飼養していた。多数のニワトリを群れとして飼養するのではなく、オス、メスの一つがいを庭に放し飼いにしたので、「庭つ鳥」とよんだのがニワトリの語源であるとされる。

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れ、世界が闇になったとき、常世長鳴鶏(とこよのながなきどり)(=ニワトリ)を鳴かせたことからわかるように、ニワトリは神や悪霊が活動する夜がおわり、人間の活動の時間である昼の到来を告げる「時告げ鳥」としての役割をもつ霊鳥でもあった。 中国では紀元前六世紀から、オスのニワトリを戦わせる闘鶏がなされていた。日本でも平安時代の宮廷貴族が、鶏合(とりあわせ)という闘鶏を楽しんでいたことが記録されている。ニワトリを飼育していたら誰にでも楽しめるゲームとして、闘鶏は民衆に普及した。

 江戸時代初期には、当時シャムとよばれていたタイ国から、闘鶏用のニワトリを輸入して飼育するようになり、これをシャモ(軍鶏)とよぶようになった。闘鶏は金を賭けるバクチともなるので、明治時代になると禁止される。

 

 一五六二~九二年の間日本に滞在し、伝道に従事したポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは、著書『日本史』のなかで、「わたしたちの食べ物も彼ら(日本人)の間ではとても望まれております。とりわけ、これまで日本人が非常に嫌悪していました卵や牛肉料理がそうです」と述べている。

 このような南蛮人の影響もあり、江戸時代になると日本人もニワトリや鶏卵を食べるようになった。一八四三年に刊行された『料理物語』には、四種類の卵の料理法が述べられている。一七八五年に出版された『万宝料理秘密箱』は「玉子百珍」ともよばれる卵料理の専門書であり、一〇三種類の卵料理の作り方が記載されている。おそらく世界ではじめての卵料理の専門書であろう。

 明治時代に養鶏業が発達し、安価に卵が入手できるようになると、日本人は卵好きになった。二〇一三年の日本の一人あたり一年の鶏卵消費量は三二九個で、一位のメキシコ、二位のマレーシアについで世界第三位である。

 タルタルステーキに生卵の黄身をそえる、マヨネーズソースをつくるときに生卵を使用するくらいで、欧米では生卵を食べることはない。

 すき焼きを溶き卵につけて食べたり、日常的に卵掛けご飯を食べる現在の日本人は、イカモノ食いの民族とみなされるようである。

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