『茶酒論』と『酒茶論』

 茶と酒はストレスを解消させ、人びとのコミュニケーションを円滑にする作用をもち、飲みつけると日常的に飲むのが普通となる習慣性をもつという共通点がある。

 いっぽう、茶が覚醒作用をもつ飲料であるのにたいして、酒は酩酊作用という相反する性格をそなえている。そこで中国と日本では、酒飲みの上戸と、酒を飲まず茶を愛好する下戸が争う問答である『茶酒論』、『酒茶論』という論集が作成された。

 ヨーロッパでも古代から飲酒はなされていたが、覚醒作用をもつコーヒー、紅茶、ココアが普及するのは一七世紀以後のことなので、このような論争が書物にまとめられることはなかった。

 甘粛省(かんしゅくしょう)の敦煌(とんこう)から発見された『茶酒論』の写本は北宋の初期にあたる九七〇年頃に書写されたものであることが判明している。

 その冒頭に人間に農業や薬草を教えたとされる伝説上の人物である神農(しんのう)が登場し、茶と酒にどちらがすぐれた飲料であるかを問答させる。

 まず茶が登場して、「茶は百草の首(かしら)であって、王や貴人にささげられものだから、酒よりも立派な飲み物である」と主張する。

 それにたいして酒は「茶はなんと馬鹿げたことをいうか。昔から酒は茶よりも尊い飲み物で、君主が家来たちに与えて飲ませると、万歳と叫ぶ立派な飲み物だ」と反論する。

 このあと、擬人化された茶と酒が、どちらが優れた飲み物であるかを自己主張する問答がなされる。

 この論争をそばで聞いていた水が最後に登場し、「酒も茶も水なしではつくれない飲み物で、酒と茶は兄弟関係にあるので、仲直りをしろ」と仲裁するのが『茶酒論』のストーリーである。

 この中国の『茶酒論』に影響をうけて著作したのかどうかは実証できないが、日本では室町時代後期の一五七六年に、禅僧の蘭叔(らんしゆく)が『酒茶論』を漢文で執筆している。

 春の花見に筵(むしろ)を敷いて酒を飲んでいる酒の愛好者(忘憂君:ぼうゆうくん)と、松の木の下で床几(しょうぎ)に腰かけて茶を点てている者(滌煩子:じょうはんし)が、唐天竺(からてんじく)(中国)の古典を引用して、酒と茶の利点を主張する問答の最後に、飲酒も飲茶も好きな者(一閑人:いっかんじん)が現れて仲裁するというのが『酒茶論』である。上戸が酒に金銭を浪費することを正当化するためによく使用した「下戸の建てたる蔵もなし」ということばも『酒茶論』に初出する。

『酒茶論』のすぐあとに、和文の解説文のついた『酒飯論』という絵巻がつくられ、酒と飯の優劣を論じている。江戸時代初期には酒と菓子が合戦をする『酒餅論』が刊行された。いずれも上戸と下戸の争いをテーマにした戯文である。

 

 『酒茶論』のつくられた時期に、日本で飲まれていた茶は粉状の抹茶であり、値段も高く、茶筅と茶碗をもちいて点てる手間のかかる飲み物なので民衆の日常生活には定着していなかった。

 江戸時代に安価な葉茶を土瓶にいれて熱湯を注いだら飲める煎茶が普及すると、民衆の日常生活に欠かせないものとなった。

 かっては、日常的に飲酒をするのは上流階級にかぎられ、民衆にとって酒は祭りや行事の「晴れの日」の飲み物であった。

 江戸時代になると、清酒や濁酒が普及し、庶民でも酒好きの者は日常的に飲酒を楽しめるようになった。

 こうして飲茶や飲酒が日常化すると、酒と茶のどちらがすぐれた飲み物であるかを社会的に論争することはなく、それは個人の嗜好の問題とされるようになった。

 酒と茶が対立することなく共存するようになったのが現代の日本社会である。

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