「おみき神酒あがらぬ神はなし」といわれるように、日本の神さまは酒好きである。そこで、神のご利益を願って、家庭の神棚に毎朝お神酒をお供えするようになった。神社での祭礼が終わったあとの宴会である直会(なおらい)では、お供物にささげた食物とお神酒を参加者たちが共飲共食した。

 わたしの家には神棚がないので、位牌が並べられた仏壇に酒や食物をお供えし、そのお下がりをいただく、祖先との共同飲食をしている。

 仏教徒のしてはならない五つの事柄である五戒のなかに、飲酒を禁じる「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」がある。スリランカ、タイ、ミャンマーなどの上座部仏教(小乗仏教)の信者には、現在でも禁酒をまもる人がおおい。

 東アジアの大乗仏教では、信者の飲酒にたいしてはおおらかであるが、僧侶が寺院で酒を飲むことを禁じている。そこで、禅宗の寺の門前には「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と記されている。

 しかし、日本では酒を「般若湯(はんにゃとう)」と称して飲酒する僧侶もおおい。般若には「知恵」という意味があり、湯には「スープ」という意味もあるので、酒を「賢くなるスープ」という口実で飲むのである。

 不老長寿を追求する中国の道教では、食物規制はすくなく、飲酒を禁じてはいない。

東アジア世界では、食や飲酒の快楽を追求することを、宗教が厳しく規制することはなかった。

 いっぽう、西アジアで成立した一神教であるユダヤ教、イスラーム教、キリスト教には、飲食に関する忌避事項がいくつもある。

ユダヤ教では、反芻しない動物や蹄が分かれていない動物を食用にすることを禁じているので、イノシシ、ブタ、ラクダ、ウマ、ロバなどの肉を食べない。モーゼの『出エジプト記』に「子ヤギをその母の乳で煮てはならない」と記されていることにもとづき、肉と乳や乳製品を一緒に料理することをしない。家庭の台所でも、肉料理用の鍋と乳や乳製品を使う料理用の鍋を別にする。

 イスラーム教では、ブタや血液は料理にしないし、信者は作法にのっとって屠畜した肉以外は食べてはならないなど、食に関するさまざまな規定があり、飲酒も禁じられている。また、ラマダーン(断食月)には日の出から日没までの日中は断食をし、食事は夜間にしなければならない。

 中世のキリスト教徒は、金曜日にイエスが十字架に掛けられたことから、四旬節(レント)の期間は断食をまもることが要請された。断食といっても、一日一回食事することは容認されていたのであるが、ご馳走とされる肉を金曜日に食べてはならなかった。そこで、現在でもヨーロッパでは金曜日は魚を食べる日とする人びとがいる。

 ユダヤ教、イスラーム教にくらべると、キリスト教の食事規制はゆるやかであるが、「大食」は「七つの大罪」の一つとされている。

 一神教の世界では、大食や贅沢な食事は悪とされてきた。禁欲的であることが人間を神に近づける手段であり、飲食の快楽を追求することは、人間のなかの獣性を放任することであるとされたのである。そして、現世において禁欲した代償として、あの世での幸福が約束されるという論理である。その思想は現代社会にも受けつがれている。現代医学でも、「大食い」や「大酒」をする者は成人病になる可能性がたかいので節制を心がけるべきだといわれる。それは禁欲をまもらぬ者には天国の門は開かれないという一神教の思想にも共通する「懲罰医学」とでもいうべき論理である。

 節制をせず、飲食の快楽を楽しみながら心身の健康を維持する方法はないものか?

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