夏の食事には、わたしは〈サツマ〉をつくることがおおい。〈サツマ〉といっても薩摩揚げではない。日振島(ひぶりじま)で習った冷たい味噌汁を〈サツマ〉という。
〈サツマ〉の調理法を記してみよう。
生干しの塩アジを焼いてから、ほぐした魚肉をすり鉢にいれ、煎りゴマ、麦味噌と混ぜて、すりこぎでする。ペースト状になったら、すり鉢を逆さにして火にかざし、焼き味噌をつくる。これにアジの干物の頭や骨でとったダシをさましたものをいれて、冷たい味噌汁をつくる。そこにキュウリの薄切り、シソの葉、ミョウガなどを刻んだ薬味をいれると〈サツマ〉ができあがる。
焼き味噌をダシで溶かずに、冷蔵庫からとりだした冷水で溶いてもよい。薬味には、刻みネギ、柑橘類の皮のみじん切りを使用してもよい。
冷たい味噌汁である〈サツマ〉は、そのまま飲むのではなく、飯にかけて食べる料理である。少量の米飯に〈サツマ〉をかけて食べてもよいが、丸麦を混ぜて炊いた麦飯にそそいで食べるのが定法である。押し麦ではなく、丸麦を混ぜて炊いた麦飯は、やや固めで、粘り気がすくない。これに〈サツマ〉をかけると、穀粒のあいだに冷たい汁がまじって、さわやかな食感のする夏向きの料理だ。
日振島は四国と九州をへだてる豊後水道に位置する離れ島である。現在では宇和島市に合併されたが、その以前は日振島村という漁村であった。
わたしの妻の先祖は日振島の出身者である。わたしが結婚した当時は、70代後半の親戚のおばあさんが、独りで島に住んでいた。
1970年代、わたしは年に2~3回おばあさんの家に滞在して、日振島の調査をおこなった。
海のなかから小さな山脈がつきだしたような景観のこの島には水田がない。段々畑で自家消費用の主作物であるハダカムギとサツマイモが栽培されたが、耕作面積はちいさい。男にとって農業は漁業の合間におこなう仕事であり、畑仕事の主力は女の労働にまかせられていた。
ほとんどの世帯が漁業に従事していたので魚は買わずとも入手できたし、サイノウオ(菜の魚)といって、網船が浜についたとき、漁獲物のなかから、おかず用の魚を無償で人びとに配る慣行もあった。
このように魚には不自由しないが、米は宇和島から買ってきて、ほんの少量の米を丸麦の麦飯やカンコロ飯のつなぎとして混ぜるのが日常の主食であった。西日本では、サツマイモの切り干しをカンコロという。
おばあさんの聞き書きのなかから〈サツマ〉についての話を抜粋してみよう。
「〈サツマ〉をつくるのに、いちばんいい魚はアジですが、ほかに白身の魚ならなんでもいいです。七輪で魚をこんがり焼いたあと、魚の身をスリコギですります。そこへ味噌をいれてよくすり、炭火で焼いてから、お砂糖とダシか水をいれ、セイソウ(青ジソのこと)をいれます。セイソウは包丁をいれると苦くなるから、手でちぎったほうがよい。キュウリをいれるところもある。これを、ご飯をちょっぴりよそったうえにかけて食べます。白米よりも麦飯のほうがおいしいです」
〈サツマ〉は宮崎県、鹿児島県で〈冷や汁〉とよばれる料理とおなじものである。岡山県、広島県、愛媛県、香川県には、この料理を〈サツマ〉とよぶ地域がある。日振島には、むかし島へやってきた薩摩の船が伝えた料理なので〈サツマ〉とよぶようになったという伝承がある。
江戸時代、南九州から大阪にやってくる船は、豊後水道をぬけて瀬戸内海の港に寄港しながら大阪湾にはいった。薩摩の冷や汁が、海路を通じて各地に伝えられた可能性がたかいであろう。