弥生時代の遺跡から発見される石包丁という石器がある。長さ10数センチ、幅数センチで、板状の石を加工した磨製石器で、孔を2つあけた半月形をしたものがおおい。



 包丁という名がつけられているので、料理に使用された石器と誤解されそうであるが、そうではない。上の図にしめしたように、片刃のものと両刃のものがあるが、鈍い角度をした石の刃先では、肉や野菜を切ることはできない。石包丁は台所用品ではない。稲の収穫に使用された道具である。



 わたしは学生時代に京都大学で考古学を専攻したが、大学院時代に文化人類学や、食文化研究に転向したので、考古学関係の論文は、1963年の卒業論文しかない。古い仕事ではあるが、その内容を紹介することとする。



 探検部という学生クラブに入部し、南太平洋のトンガ王国に遠征したことのあるわたしは、太平洋諸島の石器や骨製の釣り針を比較することによって、太平洋の民族移動を考察する卒業論文を作成するつもりで、ハワイの博物館の研究者に連絡して資料を集めたりして、準備をすすめていた。



 世界的に太平洋考古学という研究分野が確立していなかった頃のことである。主任教授から反対された。どうして太平洋を題材に卒業論文を作成することがいけないのか? 押し問答になったところ、「君がそんな論文を書いても、わたしには判定のしようがない」ということであった。売りことばに買いことばで、「それじゃあ、先生にわかる論文を書いてさしあげます」と、不遜な発言をしてしまった。



 そんな失礼なセリフをはいた以上、いい論文を提出しなければ格好がつかない。石包丁で卒業論文をつくることにきめたのが、卒論提出期限の半年前のことである。それからは大忙しの日々であった。さまざまな大学や博物館を訪ねて、所蔵されている石包丁の実測図をつくったりして、日本、朝鮮半島、中国の218遺跡から出土した石包丁資料を集め、文献資料150編を読んで、卒論を作成したのである。



 鉄製の鎌で稲の根本を切って稲刈りをするようになる以前の時代に、稲穂の直下の茎を摘みとって収穫する穂摘み具として利用されたのが石包丁であるとされてきたが、ほんとうに稲の収穫にもちいられたのかは実証されていなかったし、具体的な使用法もあきらかにされていなかった。



 そこで、アルミニウムで石包丁とおなじ形状の道具をつくり、それをもちいて農学部の農場で稲の穂摘みをして、使用痕を検討して、石包丁の使用法をあきらかにすることができた。



 また、東アジア全域の石包丁をわたし独自の型式分類して、その伝播経路を調べてみた。その結果、石包丁は華北の新石器文化でアワの収穫具として発生し、モンスーン地帯である長江(揚子江)中下流の稲作地域で稲の収穫具とされるようになったことがあきらかになった。長江下流の石包丁とおなじ型式のものが、北九州と朝鮮半島南部から出土する。そこで、長江下流から対馬海流を利用した海の道で、水田稲作が日本と朝鮮半島に伝えられたという新説を提出した。



 「えらいもの書いたな」と評価され、学生の卒業論文としては異例だが、全文が学術雑誌に掲載され、日本民族起源論の論集に再録されたりした。



 初期の稲作では田植えではなく、種子を直播きした。その頃は稲の品種が安定せず、収穫の田んぼには、完熟した稲穂と、青い未熟な稲穂が混在した。そこで、稲穂ごとに時期を違えて収穫しなければならない。そのために穂摘みがされたのだ。

 

 品種が安定し、田んぼの稲が同時に実るようになると、株ごとに移植する田植えがなされるようになり、鉄製の鎌で根刈りする収穫法になったと考えられる。弥生時代後期には金属製の小形の鎌が穂摘みに使用されるようになるが、古墳時代の5世紀頃から鉄製の根刈り専用の鎌が普及する。

他のコラムをキーワードから探す

コラム「大食軒酩酊の食文化」「vesta掲載記事」「食文化の探求」の全コンテンツより、キーワードに該当するコラムを表示します。