18世紀頃までは、手づかみで食事をしていたヨーロッパの食器セットには、碗形のものはなく、皿形のものを基本とする。液体のスープもスープ皿に入れて供される。それにたいして、箸の文化圏である東アジアの伝統的食器には碗形のものがおおい。前漢時代の『礼記』には、スープのなかの具をつまむために箸を使用することが記されている。


 箸で食物を皿からつまみあげるよりも、碗に入れたほうが食べやすいからであろう、東アジアでは碗形食器が発達した。碗をしめす漢字には、「碗」、「鋺」、「椀」など、いろいろある。陶磁器製のものを碗、金属製のものを鋺(カナマリ)、木製のものを椀と、材料別に異なる漢字を使用したのである。古くから窯業がさかんであった中国では陶磁器の碗、朝鮮半島では金属の鋺、日本は木製の椀が発達した。

 

 写真は、京都のある寺院で保存している江戸時代の木製・漆塗りのと食器である。上流階級の人が使用していたものなので、朱塗りで家紋が描かれている。こんな蒔絵をほどこした上等の食具セットではなく、黒や朱の漆塗りの高足膳と椀は、旧家やの土蔵から多数発見される。

 明治時代頃までは、冠婚葬祭や正月の食事など、人を招いて家庭で正式の食事をするさいには、漆塗りの膳と椀を使用した。一般の家庭には、10客、20客用の正式の食具セットがないので、それをそなえている本家や近隣の富裕な家から借りてくるのであった。そこで、金持ちの土蔵には何十組もの食具セットが保管されていたのである。


 写真の食器は5つの椀から構成されているが、一般には、親椀、汁椀、平椀、壺椀の「4つ椀」のセットがおおく、いずれも蓋つきの椀である。 親椀は飯椀ともよび、米飯を盛るが、かっては飯のお代わりをせず、盛り切りで食べるのが作法であったので、汁ものを入れる汁椀よりも大形である。平椀はオヒラといって煮しめ料理、オツボという壺椀には和えものなどを盛る。料理の数が多いときには、蓋を裏返して食器として使用する。


 近代になると、行事にともなう正式の食事は、式場や飲食店でおこなうようになり、木椀の使用法は忘れ去られてしまった。家庭の食卓にのこる唯一の木椀が、オワンとよばれる汁椀である。味噌汁などの汁物には、外側が黒塗り、内側が朱塗りの木椀をもちいるのが普通である。匙を使用せず、椀をもちあげて、椀に口をつけて液体をすする日本の食事作法には、熱を伝えない容器である木椀を使用するのが合理的である。しかし現代では、木製ではなく、プラスチック製の汁椀も普及するようになった。

 

 明治時代になると、主食を磁器製の飯茶碗に盛るのが普通になった。それまでは、飯を木椀で食べていたのである。飯茶碗をチャワンとかオチャワンとよぶのは、「茶碗」に由来する。文字のしめすように、茶碗は茶器をしめすことばであった。平安時代に中国から茶が伝わり、僧侶や貴族たちが茶を釉薬をかけた陶磁器製の茶碗に入れて飲むようになった。江戸時代に、抹茶ではなく、煎茶が流行するようになると、民衆も「日常茶飯事」として茶を飲むようになり、各地で陶業が発達し、陶磁器の茶飲み茶碗が普及するようになる。すると茶碗が陶磁器の代名詞となり、磁器製の香炉を「茶碗の香炉」、磁器製の枕を「茶碗の枕」とよんだりした。


 陶磁製の飯碗は、飯粒がこびりつかず、洗いやすいので江戸時代中期からつくられるようになった。しかし木椀よりも高価であったし、木器にくらべると磁器は重く、割れやすいので、長距離輸送にはむかないため、飯茶碗を使うのは都市民や磁器の産地の近くにかぎられていた。明治時代に鉄道網が発達すると、日本中で飯を茶碗で食べるのが普通となったのである。

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