ハヤシライスに添えた自家製漬物。右がザワークラウト、左がタマネギのカレー漬け。

 敗戦から間もない1940年代の後半、酩酊の家族が東京近郊の町でくらしていた頃のことである。晩秋、冷たい風が吹きはじめる頃になると、沢庵つくりのためのダイコンを干すのが、小学生時代のわたしの日課であった。
 近くの農家から仕入れた1年分の沢庵にするダイコン数10本を、庭の干し台に並べてから登校するのが、朝の仕事であった。学校から帰ると、日暮れまえに雨や夜露をふせぐために、干し台のダイコンを縁側に移動させなければならない。冷たいダイコンをもっていると、手がかじかんだことを覚えている。
 そんな作業が半月くらい続き、水分のすくなくなったダイコンがU字形に曲がるようになると、わたしの仕事はおわり、母親が塩と糠で漬け込みにかかるのであった。
 父親は教師であったが、その頃は農家でなくても、漬けものつくりは家庭の仕事とされていて、市販の漬けものを買ってくることはなかった。
 「漬けものほめれば、嬶ほめる」という、ことわざがあった。よその家でご馳走になったら、なによりもまず漬けものの味をほめるべきだ。漬けものをほめることは、それをつくった主婦を間接的にほめていることになる、というのである。
 「漬けもの上手は所帯持ち上手」という、いいかたもある。うまい漬けものをつくる主婦は、家事の達人だというのである。漬けものには主婦の人格が投影されているとされたのである。
 現在では、自家製の漬けものといったら、まれに浅漬けをつくるくらいで、漬けものは買ってきて食べるのが普通となったので、これらのことわざは忘れられてしまった。
 そして、市販の漬けものには、賞味期限の限られたものがおおい。本来は保存食品であった漬ものが、冷蔵庫で保管しなければならない食べものになったのである。
 世界のなかで野菜の漬けものをいちばんよく食べていたのは、朝鮮半島と日本であろう。日本では、米飯に漬けものがそえられるのは当然であるとされ、一汁三菜などという料理の献立に、漬けものは数えられない。おなじように朝鮮半島でも、食事にキムチはつきものである。
 日本人の米の消費量が減少するにつれ、漬けものを食べることがすくなくなり、漬けものつくりが家事から追放されるようになった。統計によれば、米の消費量は戦前の3分の1に減り、現在の平均的日本人は1日に約1合のご飯(茶碗2杯分)しか食べないそうだ。
 パン食をするようになったので、ご飯を食べなくなったと説明されることがあるが、それだけではない。朝食以外にパンを主食とする人はすくない。経済成長とともに、日本人が「おかず食い」になり、おいしい副食物で腹を満たすので、食事における主食の米の地位が低下したのである。
 家庭料理で、高カロリーの肉や油脂を使う洋食や中華料理をよくつくるようになると、漬けものではなく、野菜サラダを日常的に食べるようになった。漬けもの類のなかで、唯一消費量が拡大しているのが、キムチである。
 わたしの家でつくる、香辛料を多用した肉料理にあう漬けものを2つ紹介しよう。
 一つはドイツの国民料理であるザワークラウトである。キャベツをざく切りにして、塩、香辛料をまぶし、重石をして数日置き、乳酸発酵による酸味がでたら食べることができる。
 もう1つは、タマネギのカレー漬けである。これは料理の本には載っていない、わたしの思いつきでつくった「創作料理」というよりは、「でたらめ料理」というべき代物である。水、薄口醤油、みりん、酢、カレー粉の調味液に、タマネギのくし切りとニンニクのスライスを、2~3日漬けたもので、二週間くらい保存できる。

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