生業社会の食文化(5)梅崎昌裕

クムはおふくろの味──葉野菜の水煮

カボチャの親子丼
クムはパプアニューギニアの言葉で、葉野菜の総称である。葉野菜を調理してつくった料理もやはりクムと呼ばれる。ただし、キャベツやレタスなど、最近になって栽培されるようになった葉野菜はクムとは呼ばれない。クムは必ずしもパプアニューギニアで栽培化された植物ではないが、農薬を使わなくても栽培可能という意味では、在来野菜と呼んでもいいと思う。畑で栽培されるクムのなかで代表的なのは、カボチャやハヤトウリ、ヒユの仲間(Amaranthus spp.)、ルンギア(Rungia klossii)の葉である。シダやイチジク、クレソン、セリの葉は、畑の外側に自生するものを採集する。
教会や学校では、クムは子どもの成長によい食べものだと教えるので、最近のお母さんたちは、子どもにクムをたくさん食べさせようとする。毎日というわけにはいかないとしても、小さな子どもたちが、夕食時に一~二種類のゆでたクムをサツマイモと一緒に食べているのをよく目にする。
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ルンギア。パプアニューギニア高地で栽培化されたと考えられている
畑で栽培されるクムをおいしく調理するためには、少ない水で蒸しながら煮るのがポイントである。やわらかく煮えた段階で塩を入れる。調理の手順は単純ではあるが、柔らかい葉を集め、スジを除いて丁寧に下ごしらえすることで、できあがりの味に差がつくものである。
クムの調理にはすこしずつ新しい方法が生まれている。昔からあるのは、サバの缶詰とあえる方法である。日本製の「777」というブランドのサバの缶詰が人気で、それとクムをあえて味を付ける。一九九〇年代には仕上げに食用油を加えるのが流行した。クムの舌触りと歯ごたえがよくなり、韓国料理のナムルのような味になる。最近は、インスタントヌードルをクムに入れて煮込むのが定番となった。日本でインスタントヌードルに野菜を入れるのと、ちょうど反対である。少なめの水でクムと麺がクタクタになるまで煮る。インスタントヌードルのスープが薄いコンソメ味なのがいいのだと思う。意外なおいしさである。柔らかく煮たカボチャの葉とヌードルを、カボチャの実をゆでたものにかけて、カボチャの「親子丼」風にすることもある。
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ハヤトウリの葉のサツマイモ添え(東高地州にて夏原和美が撮影)
「硬派」な男になるために必要なこと
いまは考え方もだいぶモダンになって、パプアニューギニア高地でも、男が妻子と同じ家で暮らすのはそう珍しいことではない。しかし、僕が調査をしていた一九九〇年代にはまだ、男の家というものがあって、そこでは男たちだけの集団生活がおこなわれていた。女性は敷地の中に入ってはいけないことになっていた。
最初に僕が泊まらせてもらった男の家は大きなもので、子どもから年寄りまであわせて一〇人ほどの男たちが寝泊まりしていた。真ん中に炉をきった奥行き一〇メートルほどの土間があり、その右左に小さな部屋が並んでいた。部屋に寝るのは中年以降の実力者で、若者や子ども、遠方から訪ねてきた親戚の男などは、草を敷きつめた土間にごろ寝である。
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男の家のなかでたき火を囲む男たち
男の家では、食事当番が決まっているわけではなく、それぞれが自分のサツマイモをもちよって、自分のサツマイモを炉で焼いて食べる。小さな男の子はお父さんにイモを焼いてもらうが、一二~一三歳をすぎた若者は自分が食べるサツマイモは自分でさがして、自分で焼く。年長の実力者たちが結婚式や戦争の手打ち式からブタ肉を持ち帰ることもあり、それは男の家にすむ全員に分配された。薪集めや水くみは若者や子どもの仕事である。
男の家で暮らす男たちは、規範として「硬派」であることが求められる。妻子のことは気にかけず、戦争に進んでかけつけ、敵の弓矢を怖がらない。囲炉裏のまわりで話すことは、よその地域とどのようなもめごとがあるか、それはどのようにして解決できるか、戦いになった場合に勝算はあるか、そのようなことである。
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お母さんと子どもたち。お父さんは男の家に暮らしているので、滅多にやってこない
男が集団で暮らすのに対して、男たちの妻子はそれぞれの家で暮らしていた。男の家のほとんどが、山の稜線などみはらしのよい場所に建てられているのに対して、妻子の住む家は道から離れた谷間の畑にひっそりと建てられることがおおい。妻子の住む家のある畑のまわりには二~三メートルもある堀があり、敷地に入るには一本橋を渡らなければならない。畑のまわりにはモクマオウなどの樹木が植えられていて、外からは家がみえないようになっている。そこは閉じた空間で、例えば、よその男が敷地内に入ることはない。
夫婦が離れて暮らしていた背景には、パプアニューギニア高地の男性がもつ身体観が関係している。身体を構成する要素は男女で質的に違うと考えられており、成長の仕組みと健康維持の方法も男女で異なっている。男性にとって、女性の血液は、成長を阻害し、健康を損なう原因になるものである。だから、強く元気でいるためには、なるべく女性から離れてくらし、女性が調理したものは食べるべきではない。
かつて、戦争に出かける前に、男たちはトゲだらけの籐の蔓を鼻の穴や食道に出し入れして、故意に出血させたという。それは、お母さんから受け継いだ女性由来の弱い血を体外にだす行為であり、そうすることで、一騎当千の戦士になることができると信じられていた。殴り合いのけんかに負けた僕の友人は、負けた原因は妻と一緒に暮らしたからだと考え、その翌日から男の家に暮らし始めた。
そんな社会に生きる男にとって、女性は悩ましい存在である。正直なところ、奥さんはかわいいし、愛しい。だから本当は一緒に暮らしたい。でもそうすると、間接的にせよ、何かと女性の血に触れることになり、喧嘩が弱くなるし、下手をすると病気になってしまうかもしれないのである。
男である以上、それは子どもでも同じことだ。男の子が、お母さんとずっと一緒に暮らし、お母さんの料理したものを食べていると、強い男に育つことはできない。だから、七歳を過ぎた頃から男の子は母親の家を離れ、父や兄、いとこ、叔父たちが集団生活をする男の家に移るのである。それは強く健康な男に成長するためには必要なことなのだ。
お父さんと一緒に暮らすようになった子どもは、それまで毎日のように食べていたクムを食べることができなくなる。なぜかというと、男の家でわざわざ自分のためにクムをゆでる男などいないからである。クムをゆでる鍋さえないこともおおい。「硬派」な男たちがふだん食べるのはサツマイモとブタくらいのものである。そうなると、男の子もお父さんの焼いたサツマイモを食べて、クムなしの食生活で生きることになる。小さいとはいえ男だから、お母さんの家にクムをもらいにいくわけにもいかない。クムは、お母さんと一緒に暮らした頃を思い出すおふくろの味である。
鍋がなかった頃のクムの食べかた
いまでこそお母さんの家では日常的に食べることのできるクムも、かつては今ほど頻繁に食べるものではなかっただろうと考えられている。ひとつの理由は、パプアニューギニア高地に土器がなかったことである。ステンレス鍋が一般化する一九七〇年代より前には、クムを「煮る」という調理法はなかったことになる。
その時代、クムを調理する場合には、竹が使われていた。竹といっても孟宗竹のように大きなものではなく、太さが五センチほどの竹である。その中に、ルンギアやアマランサスの葉をギュウギュウにつめて、直火にくべ、蒸し焼きにする。しだいに竹の中のクムの嵩が減るので、さらにクムを追加して、隙間なくつめこみ、再び蒸し焼きにする。ブタの脂身があればそれも一緒に入れる。この方法で調理すると、クムが竹の水分を吸収しトロトロになる。食べておいしいのは間違いないが、調理するのに時間がかかって大変だ。
鍋がなかった頃にも可能だったもうひとつのクム調理法は、ムームー(地炉)での蒸し焼きである(詳しくはヴェスタ八十六号参照)。ムームーはたくさんの材料を同時に料理できるために、大勢の人があつまる場面で、実施されることがおおい。そこでは、サツマイモやブタ肉とともに、イチジクやシダの葉が調理される。イチジクの葉やシダは硬いので、鍋でゆでただけではなかなか柔らかくならないが、ムームーで長時間蒸し焼きにすると、おいしく調理できる。特にシダはブタ肉をムームーで調理する時にはなければならないものである。茎をもって枝についた葉を歯や指でしごき取りながら食べる。
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上/竹にクムを詰め込んで加熱する(東高地州にて夏原和美が撮影)
下/ムームーのできあがり。手前にある子豚のまわりにはシダとセリがみえる
食生活のなかでのクムの位置づけ
考えてみれば、パプアニューギニア高地でのクムの位置づけは、私たちの食生活での葉野菜とずいぶん違うと思う。ためしにうちの冷蔵庫をみると、キャベツ、レタス、ミズナ、チンゲンサイなどの葉野菜が入っていた。冷蔵庫の外には、新聞につつんだハクサイもある。
キャベツは、野菜炒めに使おうと思って買ったものである。レタスは朝食のサラダ用、ミズナは日曜の夜に食べた水炊きにつかった残りで、味噌汁の具にすると思う。チンゲンサイは、実家の家庭菜園でできたもので、薄揚げと炒めて子どもの弁当のおかずになる予定である。いずれもおいしい料理になるのは間違いないが、主役というよりは脇役であり、ごはんや肉・魚だけでは不足する食物繊維やビタミンが摂れるように毎日食べましょう、という位置づけである。
パプアニューギニア高地のクムは、その立ち位置が時間とともに大きく変わった。鍋がなかったころは、ムームー、あるいは竹蒸しなど手のかかる方法で調理してたまに食べる「おいしい」食べものであった。それほど特別ではないものの、かといって日常的な食べ物でもない。日本人にとってのお寿司あるいは天ぷらのようなものだったのかと思う。その後、ステンレス鍋とともに西洋から現代栄養学の考え方が導入され、お母さんたちは子どもにクムを日常的に食べさせるようになった。食料油、サバの缶詰、インスタントラーメンなどが加わってクム料理としてのおいしさの進化もあり、子どもの成長に関心をもつ「よい」お母さんを象徴するような料理となった。
一九九〇年代の男の子は、七歳をすぎるとお母さんのクムを食べて強く成長するのではなく、お母さんから離れることで強く成長することを期待されていた。これは栄養学的に考えれば不合理ともいえるが、人々の身体観に根ざす信念でもあり、部外者には口出ししにくいことである。
いまでは、男が家族と同居することは一般化し、男の子どころかお父さんもクムを食べるようになった。うちは毎日クムを食べているから家族は健康で、子どもはよく育つのだと自慢する男の顔をみると、時代は変わったものだと思う。
二〇一〇年代になると、この地域では世界最大規模ともいわれる天然ガスの採掘事業がすすみ、人々の暮らしはますます急激に変化している。心配なのは、町のマーケットでクムが売られなくなったことである。お金があるのだから、クムのように時間のかかる料理はやめて、ソーセージやコンビーフなど手をかけずに食べられるパンチの効いたものを食べましょう、という風潮が広まっているのかもしれない。クム料理は、おふくろの味から、昔の味へと変わるのだろうか。

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