酩酊お手製の冷やし中華。日本の麺料理につきものの鳴門巻は、ラーメンや冷やし中華にも飾られる。

 酩酊先生が東京近辺に住んでいた子どもの頃、夏の夕食の楽しみは冷や麦を食べることであった。その頃のわが家では、ふだんのだし汁には煮干しをもちいたが、冷や麦を食べるときは鰹節でだしをとるのであった。母親に鰹節を削ることを命じられると、「今夜は冷や麦が食べられる」とよろこんだことである。  
 昭和20年代の関東地方では、夏に食べる冷たい麺は、冷や麦が普通であり、そうめんはあまり食べられていなかった。 酩酊がそうめんに親しむようになったのは、関西の大学に入学してからのことである。
 
 下宿住まいの大学生となって外食生活をするようになってから知った、夏の冷たい麺料理に「冷やし中華」がある。
 冷や麦、そうめん、盛りそばなど、日本の冷たい麺料理は好きではあるが、それだけで食事をすませたら、おかずなしで主食だけを食べたことになり、物足りない気がする。冷やし中華には、焼き豚、錦糸卵、メンマ、キュウリ、紅ショウガの細切りがそえられ、主食とおかずが盛りあわされているので、1皿で完結した食事をとることができる。また、水洗いをしただけの伝統的な麺料理にくらべて、中華麺を氷水で冷やして供する店がおおいので、汗ばんだ身体を引き締めてくれるような気がする。しかも、貧乏学生にも手がとどく値段で外食できる料理である。そこで、夏の昼食には、冷やし中華を食べることがおおくなった。
いまになって思えば、わたしが冷やし中華の味を知った昭和30年代前半は、日本で中華風の冷たい麺が普及する時期にあたっていた。
 中国の唐代、宋代には夏に冷たい麺料理を食べることがあった。しかし、時代がたつにつれ、冷たい料理を供さなくなるのが、中国料理の歴史的傾向である。
 現代の中国の麺料理にも「冷拌麺・涼拌麺(リャンバンミェン)」という、ゆでた麺を水で冷やしたものに、さまざまな具材とピーナやゴマのソースや黒酢などの調味料を和えて食べる麺料理もあるが、日本での冷やし中華ほどの人気はない。
 冷やし中華の起源については諸説があるが、いずれも昭和10年前後に仙台、東京、京都の都市の中華料理専門店からはじまったとされ、当初は冷麺とか、涼拌麺という中国起源のことばでよばれた料理であった。
 昭和21年に、中国を支那とよばずに、中華民国という名称を使用するようにという外務省の通達がだされ、それまで「シナそば」とよんでいた中国起源の麺や麺料理を、「中華そば」というようになった。昭和20年代後半に、夏に中華麺を冷やして食べる料理が普及すると、「冷やし中華」という名称が定着した。
 昭和50年に、それまで夏季限定の商品だった冷やし中華を、冬にも食べられるようにということで、SF作家の筒井康隆たちが音頭をとって「全日本冷やし中華愛好会」が結成されたことに象徴されるように、冷やし中華という名称が全国的に通用するようになった。
 昭和33年に「チキンラーメン」が発売されてから、「中華そば」を「ラーメン」というようになった。そこで、北海道では「冷やしラーメン」ということがおおい。また冷やし中華の普及期に、関西の中華料理店では「冷麺」という商品名で売りだしていた名残で、西日本では冷麺とよぶことがおおい。焼き肉屋などで供する朝鮮半島の冷麺(ネンミョン)と区別するときには、それを韓国式冷麺とか、朝鮮冷麺という。
 ゆであがった麺を氷水で冷やし、彩りよく盛った具材に、さっぱりとした味の汁をかけて食べる冷やし中華は、中国や朝鮮半島の冷たい麺料理とはちがう日本独自の料理に進化した。中国でも「日式冷麺」という名で食べられるようになったのである。

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