食の文化フォーラム 食の欲望論-生存から快楽、そして情報へ
欲望の自己点検への呼びかけ
東京葛飾のエチオピア料理店に行ってみた。大皿に盛りつけた数種類の煮込み料理をインジェラというクレープのようなもので巻いて食べる。大変においしい。そこにエチオピア人らしい新たな客がひとりで入ってきた。人類学者の友人がただちにアムハラ語で声をかける。一緒に食べませんか。声をかけられたほうはにっこり笑い礼をいう。こちらに加わることはないが、未知の人も共食に誘う。このやりとり自体が礼儀らしい。孤食が蔓延する現代日本の文脈ではまず見られない行為だ。
食物も、食習慣も、土地と時代により変化する。生命維持の最低限の欲求に加えて、土地ごとの条件を最大限に利用した食への欲望が育まれる。市場経済と物流の拡大とともに、新奇さや質や量を求めて過剰な追求がはじまる。こうして食べることをめぐるヒトの実践はあきれるほどの多様性を持ち、そこではもう何が正解とすらいえない。本書はそんなヒトの食を支える欲望を、人類学・心理学・文化史などの諸分野から見つめ直そうとする。私たちはなぜ食べるのか、何をどのようにしていつ誰と食べるのか。話題は共食の意味、過食と拒食、宇宙飛行士の食事など多岐にわたるが、とりわけおもしろいのは異文化における食事実践の具体例だ。
カラハリ砂漠の狩猟民サンが水の代わりに西瓜で獲物の肉を煮るというので小さく驚き、エチオピアの農耕民デラシャの主食が酒だというのに大きく驚く。パルショータと呼ばれるそれはモロコシとトウモロコシから作る緑色の発酵酒だ。人々は瓢箪やペットボトルに入れたそれを一日中もち歩き、お弁当も間食もそれですませる。完全栄養食なのだ。発酵が進むにつれ毎日味が変わる。水は飲まない。なんと完成された食生活だろう。
もうひとつ非常に興味深かったのは、日本近代におけるヘルシーフードの歴史だ。明治維新後、牛肉と牛乳を奨める風潮に抗うかのごとく石塚左玄は「食養」を説いた。玄米と菜食中心の食事をすすめる食養は「日本の近代的ベジタリアニズムの出発点であり、地産地消の先駆けでもあった」という。この石塚の弟子が桜沢如一、全世界に信奉者の多いマクロビオティックの創始者。食をめぐるさまざまな流行、健康食、断食など、われわれは実践し、宗旨替えし、道に迷うことをくりかえす。
本能が壊れた動物としてのヒトは、およそ考えられるかぎりの何でもやってしまう。食べることも例外ではない。食を単なる消費行動にしないためにも、欲望の自己点検が必要だろう。