動物における食行動は個体維持、性行動は種族維持にかかわる行為であり、二大本能といわれる。
人間は料理をすることにより自然には存在しない食べものをつくりだしたり、異性をひきつけるために身を飾ったり、結婚という制度をつくりだした。
人類の二大本能といわれる食欲と性欲を、人間らしく充実させようとして、食文化と性文化が形成されたのである。
「おまえは飲食の文化に関する論考をよくしているが、性の文化には興味がないのか?」と問われたことがある。そうではない、わたしはセックスにも人なみの関心をいだいていた。
世界各地でフィールドワークをおこない、体験にもとづいて、比較文化論的な考察をすることが好きなわたしのことである。
食文化の研究とおなじように、世界各地でセックスのフィールドワークをはじめたら、家庭争議になりかねないし、身体がもたないだろう。そこで性文化研究は敬して遠ざけていた。
そんなわたしが性文化について考える機会がやってきた。一九六九年に友人の山下諭一さん(一九三四~二〇一八年)が、月刊誌『えろちか』(三崎書房)の編集長になったのである。
山下さんは『危険な標的ソネ・タツヤ無頼帖』(三一書房 一九六四年)など、ハードボイルド調の小説を執筆する作家であり、英文の訳書もおおい翻訳家でもある。
神戸出身の山下さんは、大学時代から東京で活動し、池袋でバーを開いていた。わたしは、上京したときには、このバーで一杯やる常連の飲み客であった。
山下さんが編集長になると、きわどい性描写の記事がおおく、エロチシズム関係のお楽しみ記事によって占められていた雑誌『えろちか』を、性文化に関する問題提起型の雑誌に切り替えたのである。
そこで、小松左京さんをホスト役にして、会田雄次・鯖田豊之・奈良本辰也さんなど、当時を代表する文化人たちが性文化を考える共同討議が『えろちか』に連載されるようになった。
山下さんから、『えろちか』に人類学的視点から性文化を論じるSexual Anthropology というコラムにエッセイの連載をするようにとの依頼をうけた。きわどいことを書く可能性があるので、てれかくしにペンネームを使用して執筆することにした。「鏡国有子(きょうごく・ゆうこ)」という筆名は、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」をもじったものである。
もう一つ、ペンネームを使用した理由がある。連載がたまったら、それをまとめて、鏡国有子と石毛直道の共著の本にまとめようとたくらんでいたのである。単行本化するときには、鏡国有子名で発表した毎回のテーマについて、石毛直道がコメントを付して、二人の共著として出版しようとたくらんだのだ。
石毛直道がコメントしやすいように、鏡国有子名義の文章には、毎回まちがいではないけれど論旨のよわい部分を意図的にしのばせておいたのである。そこをとりあげて、石毛直道のコメントで補強するくわだてであった。人類学の知識をもつ読者は、鏡国有子の文章のどこが弱点であるかをみつけていただきたい。
『えろちか』一九七一年九月号から毎号掲載されたSexual Anthropologyシリーズは、九二年九月号で中止せざるを得ない状態になり、共著の本は実現しなかった。現在なら問題にならないような性描写の記事が、猥雑であるということで発禁処分になったことが原因で、『えろちか』が廃刊になったのである。
注 『えろちか』に掲載された「Sexaul Anthropology」は『石毛直道自選著作集 第十一巻 生活学』に再録されている。