日本で「おむすび」、「おにぎり」といわれる握り飯は、手に塩をつけて、米飯を握っただけでつくることができる。
簡単につくれる携行食なので、コメを主食とするアジアの諸地域では、どこでも握り飯を食べていると考えられがちであるが、そうではない。握り飯は、炊いたら粘り気のある米飯ができ、水分を多く含み、よく噛んだら、弾力と甘味を楽しむことのできるジャポニカ種のイネを栽培してきた日本で成立した料理である。
世界のコメの生産量の約八割を占めるインディカ種の米は、インド、東南アジア、中国南部での主食である。ジャポニカ種にくらべると、長細い米粒で、炊いても粘り気の少ないインディカ種の米飯は、握っても固まらないので、握り飯をつくることができない。例外として、タイ東北部とラオスでは、「カオニャオ」というインディカ種のモチ米を蒸して食べるので、その米飯を球状にまとめて草の葉に包んで携行食とすることがあるとのことだ。
中国のジャポニカ種の稲を栽培してきた地帯や朝鮮半島でも、握り飯は発達しなかった。そこでは「炊いた飯は温かい状態で食べるもの」という意識がつよく、握り飯などの冷飯にたいしては、「施しをうけた下賤な者がしかたなしに食べるもの」とか、「やむを得ない場合の携行食」という、悪いイメージが根強かったのである。
しかし、日本食が世界に普及した二一世紀になると、中国や韓国のコンビニでも、さまざまな具材をいれた握り飯が売られるようになった。
日本で水田稲作農業が確立した弥生時代の遺跡から炭化した米飯の塊が発見されることがあるので、これが握り飯である可能性がたかい。
奈良時代初期の西暦七二一(養老五)年に成立した『常陸国風土記』の「筑波郡」に、モチ米でつくった「握飯(にぎりいい)」と記されているのが、文字に記録された握り飯の初出であるとされる。
平安時代には、蒸したモチ米一合半くらいを楕円形に握ったものを「屯食(とんじき)」とよんだ。江戸時代になっても、公家社会では握り飯を「屯食」と表現していた。
鎌倉時代末期頃から、現在とおなじウルチ米の握り飯がつくられるようになった。
江戸時代には、芝居見物のとき食べる幕の内弁当に握り飯がいれられるようになると、手作りで一個ずつ握るのではなく、米飯を木型で押し抜いて、大量生産することもおこなわれるようになった。
携帯に便利な握り飯は、戦場における兵糧(ひょうろう)として利用された。二〇世紀になっても、大日本帝国陸軍では、兵食の基本として、麦飯一合を球形に握ったものを、一人一食あたり二個携行するのが基準であった。
江戸時代に養殖した海苔(のり)を板状に加工した浅草海苔が普及すると、海苔で包んだ握り飯がつくられるようになった。その以前から、握り飯には、佃煮(つくだに)や梅干し、味の濃い漬物など、保存性がたかく、静菌作用のある食品をいれて握るのであった。
握り飯の具材の定番とされた梅干しは、薬効のある漬物とされ、平安時代に村上天皇が梅干しと昆布茶で病を治したという言い伝えがのこっている。
戦国時代になると、梅干しは傷の消毒や伝染病の予防になくてはならないものとして陣中食に使われた。また、戦闘中の休息に、梅干しを見ると唾液が分泌され、息切れを防ぐ効果があるとされた。
江戸時代には、現在とほぼおなじ作り方の梅干しが普及し、家庭でも自家製の梅干しを食べるようになった。濃口醤油が普及する江戸時代中期以前の関東では、梅干しを日本酒で煮詰めた「煎り酒」が、調味料として広く使われた。
そして、米飯のうえに赤い梅干しを載せた「日の丸弁当」は弁当の定番とされてきたのである。