Washoku 「和食」文化の保護・継承活動の報告コーナー

「家庭科教師の皆さんに、石毛先生が食文化を語る」

2013年12月26日(木)

会場 大阪ガスクッキングスクール神戸
主催 大阪ガス(株)

師走も押しつまった26日、JR神戸駅前にある大阪ガスクッキングスクール神戸で、中学の家庭科の先生方を対象とした講習会が開かれ、石毛直道先生(国立民族学博物館名誉教授)が「アジアと日本の食文化」と題して講演を行いました。
折しも、「和食;日本人の伝統的食文化」のユネスコ無形文化遺産への登録が正式決定(12月4日、アゼルバイジャン・バクー開催の政府間委員会)し、「食文化」への関心がいっそう盛り上がってきた時期。そこで、この分野のパイオニアであり、学問として確立した先生に、「アジアと日本の食文化」を語っていただくことは、まさに時宜を得た企画といえます。せっかくの石毛先生の講演なので、できるだけ丁寧に再現、報告いたします。

REPORT

家庭科教師の皆さんに、石毛先生が食文化を語る

冒頭、司会の方から開会のあいさつ。「本日はいつもの調理実習というだけでなく、国立民族学博物館名誉教授である石毛先生のお話もうかがえるので、しっかり聴いて研修し、来年度からの私たちの家庭科教育に少しでもプラスになるようにもっていきたいと思う」。

冒頭、司会の方から開会のあいさつ

続いて、ホスト役の大阪ガスから、食と食育を担当されている橋下純子さんがマイクをとる。「先生方がお揃いになる機会に、高名な石毛先生を迎えるに当たり、実は偶然の奇跡の連続があったことを一言お伝えしたくて」と述べ、普通なかなかお願いできない石毛先生に、仲介の労をとってくれたのが公益財団法人味の素食の文化センターであり、いろいろな方の「食」に対する熱意がこの場をもうけてくれた、と紹介。さらに、「和食」のユネスコ無形文化遺産登録についても触れ、多くの方の努力によってなされたものであり、喜びを分かち合いたい、とした。
橋下さんの紹介を受けあいさつに立った飯田事務局長。「一貫して食文化研究の支援と食文化の普及に取り組んできた味の素食の文化センターは、研究の陣頭指揮をとられた石毛先生と二人三脚でその研究のお手伝いさせていただいた」、「世界90カ国以上を回り食文化を見てきた石毛先生には、比較文化の視点もふまえアジアの中の日本の食について語っていただけると思う。先生方が授業で活用できるようリクエストしているが、内容はどうなるかお楽しみに」と述べ、拍手の中、石毛先生をお迎えした。

講演「アジアと日本の食文化」(石毛直道先生:国立民族学博物館名誉教授)

私は、国立民族博物館に長い間いたことから分かるように民族学者だが、もともと食いしん坊で、自分で料理をすることも好きである。そんなことで、民族学の中でも、食文化の研究をわりと行ってきた。
今日のタイトルは「アジアと日本の食文化」。先ほど言われたように、「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録され、私も応援団として大変結構なことだと思っている。そういった日本人の伝統的な食生活が、アジアの中でどんな位置を占めるのか、そのことによって日本の食文化の特徴みたいなものをお話ししてみたいと思う。

◆気候風土が決める生活様式と主作物

まず、「アジアの伝統的生活様式と主作物の類型の模式図」からご覧いただきたい。これは私が昔作ったもので、四角くデフォルメされているが、一応インドから東側のアジアの地図だと思ってほしい。つまり上の方が北、下が南、右側が東、左側が西というふうに、ちょっと想像力を働かせて見ていただきたい。

アジアの伝統的生活様式と主作物の類型の模式図

そうすると、上の方はモンゴルとシベリア。アジアの地図を思い出していただければ、中国の上にモンゴルがあって、その東側にシベリアがある。モンゴルはこのまま中央アジアにつながり砂漠の地帯である。こういった北側の世界というのは、気候が寒くあまり農業には適しない場所である。
東側のシベリアの方は北側の冷たいところに生える針葉樹林帯で、長い間、氷と雪に覆われ農業はできない。そこに住んでいたシベリアの原住民は、農業をせず、主に狩猟と採集を行ってきた。狩りをして動物の肉を食べ、魚獲りをして魚を食べる。北側だから、あまり大きな木の実はできないが、小さい木の実はさまざまでき、それらの木の実やベリー類、漿果類、そういったものを採って食べた。もちろん、シベリアの原住民の一部には牧畜をやっていた人たちもいる。家畜をたくさん飼って、その乳や肉を食べていた。しかしながら、それは、普通牧畜に使う家畜とは違い、こういう北の寒い所に住む動物、トナカイである。つまり野生のトナカイを家畜化していたわけだ。
西側のモンゴルから中央アジアにつながる地帯は、大変乾燥しているから農業には適さない。砂漠地帯が大変多い。しかし、皆さん砂漠と言うと砂ばかりで覆われている風景を思い描くだろうが、実はいろいろな砂漠がある。草が結構生えている砂漠がたくさんある。岩だらけのゴツゴツした岩砂漠もある。そういった砂漠地帯には牧畜民が住んでいる。砂漠の中でも泉があり、オアシスでは農耕をする人々がいる。しかしオアシスは点としてあるだけで、やはり広大な乾燥地帯では、農業をせず生きている人がいる。
彼らは家畜を群れとして飼い、それで生計をたてているわけである。牧畜に使われる家畜は、ヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマ、ラクダなど。乾燥地帯に生き、草食性で、だいたい有蹄類(蹄がある)である。さらに群居性の動物、もともと家畜にする前から群れとして行動してきた。そういったけだものを馴らして家畜にし、それに依存して生きる。そういった生き方が、この地帯で発達したわけである。
ここでいう「牧畜」とは、どういう生活様式か。どうも牧畜民というと、家畜をたくさん飼っているから肉ばかり食べているだろうと思われがちだ。ところがそうではなくて、牧畜民は乳を食べる人である(私は、乳を「飲む」とは言わず「食べる」と言った。詳しくは後述する)。
彼らは一家族で、草食性の群れをなす家畜を二百頭とか三百頭とか、百頭単位で飼い、それで暮らしている。そうすると、家畜をどんどん殺して肉を食べたら、言うなれば貯金の元金を次々引き下ろすようなもので、先細りになる。一方、乳というのは、乳を出すメスが多くなればなるほど量が増える。また仔を産んで乳の出がよくなる。そうすると、オスの家畜は、生まれると子供の頃に、種オスとして良い子孫を残せるオス以外はすべて去勢(睾丸を取る)してしまう。去勢すると、していない家畜に比べ大きくなって肉がつく。肉を食べるのはこの去勢したオスで、メスはずっと乳絞りをして、乳が出なくなったら肉にする。このように、肉よりも乳に依存する人々なわけである。
さて、私は乳を「食べる」と言った。乳というのは、飲んでいたら完全食品で、栄養的に大変いい。しかし、乳は置いておいたらすぐ悪くなってしまう。それから、家畜が乳を出さない季節もある。たとえば、たいてい冬になると乳の出が悪くなるし、また妊娠したら乳が出ない。そうすると、手に入らない季節に備えて乳を乳製品に加工し、飲むのではなく食べる。
私たちが知っている乳製品といえば、バター、チーズ、粉ミルク、ヨーグルトなどだが、これらはヨーロッパ型の乳製品。中央アジアからモンゴル、西アジアにかけて、牧畜だけで暮らしている人々は本当にたくさんの種類の乳製品を作る。モンゴルでも何十種類という乳製品がある。たとえば、乳の中の蛋白質を固めたものはチーズだと思う。しかしながらそれは西側のチーズであり、レンネットという動物の内臓にある酵素で乳を固める方式。そうではない固まらせ方がいろいろある。
モンゴルの例をみよう。乳を火で熱すると脂が上に浮いてくる。その脂を全部取る。すると、乳の脂肪がモンゴル流のバターになる。脂肪を取ると、後にタンパク質と水分が残る。さらに沸かすとタンパク質だけが固まってしまう。それをテントの上に置いて干すと、本当にカチンカチンで、そのまま囓っても歯が折れるぐらいの固いチーズみたいなものになる。また水分がとんでいて非常に軽い。
モンゴルの人々は遊牧民である。牧畜の中でも「遊牧」といって、季節により草が生えるところへ何百頭と家畜の群れを連れていく。組み立て式のテントで生活をしており、移動にはそういった軽いものが適するわけで、カチカチのチーズ様のものを削ってお茶の中に入れて飲む。遊牧民というのは、本当に農産物を食べない。自分たちで農業をしないので、オアシスに住む農耕民と交換をするが、もともとの生き方としては、ほとんど乳と乳製品と肉で生きていた人たちである。これが、ヨーロッパなどでは、「農牧」といって農業もやって牧畜もやる、農業と牧畜がセットになった生活様式がある。

講演の様子

今度は、図の下の方、農業(農業社会)をみていこう。
まずその中のインド亜大陸。インドの人々は、農業が主だが、やはり家畜を群れとして飼い、乳製品もいろいろ食べている。たとえばギー(簡単にいえばバターオイル)。バターを熱して水分を蒸発させたもので、インド料理によく使う。このように農業と牧畜が一緒になるわけである。
ところが、インドより東側の世界――中国、朝鮮半島、日本、東南アジア――ここは牧畜をしない場所なわけである。
中国に、万里の長城というのがある。あの万里の長城が、ちょうど位置的には北側の牧畜民と南側の農耕民を分ける場所だった。つまりそれはこういうことだ。
北側の牧畜民、遊牧民は、いつも家畜を連れて移動するから、財産は家畜である。農民なら、力がある者が土地を支配して農民を働かせ、出来た農産物を税金として巻き上げる。ところが牧畜民の場合はいつも動産。土地のように権利とかいうものが関係ない。そうすると、一番てっとり早いのは他の牧畜民を襲って、その家畜を奪い自分の群れの中へ入れてしまうこと。そのため軍事行動が昔から発達してきた。すると、北側の牧畜民、特に遊牧民が昔から農業地帯の中国に入って来て、農産物を巻き上げたり、略奪をする。それを防ぐため、境目につくって牧畜民が入らないようにしたのが万里の長城なのである。
あんな長城などいくらでも乗り越えられるじゃないかと思うかもしれないが、あの壁はやはりたくさんの家畜を連れては越えられない。そういった意味で、万里の長城から南側が農業地帯だったわけである。
その中国も、北と南が分かれる。
北側の世界というのは華北とか東北、それから朝鮮半島の北の方(簡単にいったら、三十八度線から北側が歴史的な境目)、そういったところは牧畜をやらない。農業では何をやっていたかというと雑穀の農業だった。もともとはアワ、キビ。ところがそこに小麦が入ってくる。中国でいえば紀元前数百年ぐらい前、シルクロードのオアシスを点々とつたいながら、小麦が中国の河北平野に入ってきた。それで小麦を、華北ではよく栽培するようになる。
小麦というのはそのままでは殻が固く、水を吸わないし、お米みたいに粒では食べられないので粉にして食べる。西側ではパンになった。中国の華北では、小麦の粉を丸めて発酵させ、饅頭など蒸して食べる。中国では昔から蒸す技術が発達していたからからだ。
それに対して、もっと南側――中国でいったら華南、華中、もう一つ南の東南アジア、それから朝鮮半島の南部とか日本――ここにはお米を食べる稲作地帯がある。
私は昔、考古学をやったことがある。考古学の論文で最初に書いたものが「日本の稲作はどこから来たか」というテーマ。石庖丁という弥生時代の石器があるが、同じものがアジア各地にある。それをずっと調べて、稲の収穫に使った石庖丁であると、実験などでも実証した。さらに、同じ弥生時代の最初に北九州に入ってきた石庖丁と同じ形式のものがどこにあるか、調べてみた。これは中国の長江、つまり揚子江下流地帯、南朝鮮と日本の最初の弥生文化、稲作文化である北九州から、まとまって出た。そこで、これは揚子江下流の稲作民が、船を使って北九州と南朝鮮に来て、稲作を伝えたのだという説を立てた。今でもこの説は生きている。
このように、日本の稲作は揚子江下流から来た。しかも、その頃、紀元前一千年くらいの時代、揚子江の下流というのは中国の漢民族でなく、東南アジア系民族がたくさん住んでいた。そこで、日本と東南アジアには大変似たところがたくさんある。
たとえば、稲の一粒一粒に稲の魂が宿るという。新嘗祭、最初に稲の収穫をすると、秋、今も日本ではお祭りをずっとやっている。それが日本の秋祭になるわけだ。宮中でも新嘗祭をやっている。同じような、稲の粒には魂が宿るという信仰が東南アジア全体にあるし、新嘗祭と同じものが行われる。詳しく言う時間がないが、東南アジアの稲作地帯と日本の稲作とは大変よく似ている。
しかしながら、東南アジアの現在の料理と日本の料理との一番の違いは何か。東南アジア料理は種々の香辛料、ハーブを使い、スパイシーで、いろいろ複雑な匂いがする。これらは日本料理には入っていないものだ。なぜかと言えば、東南アジアへのインドの影響である。インドではカレー粉でも分かるように、スパイス使いが昔から発達した。そして地理的に近い東南アジアにずっと強い影響を与えてきたのである。

◆中国文明が与えた影響

アジアでもう一つ影響を与えた文明が古代中国である。その中国文明が、日本や朝鮮半島に多大な影響を与えたのではないかと思う。
中国文明の一つの特徴として「蒸す」技術がある。それから「箸」を使って食べることがある。
箸というのは、紀元前四世紀頃から中国で発達したもので、初めはどうもスープの中の具を摘むものとして使っていたようである。それから、箸だけでなく匙も使うようになった。日本に箸が入るのは新しく、紀元三世紀頃の中国の文献『魏志倭人伝』(卑弥呼のことが書かれている)を読むと、倭人が手食するとあり、卑弥呼の時代はまだ箸がなく手で食べていたことが分かる。東南アジアやインドなどでもずっと手で食べていたわけである。
それで、日本に箸が伝わるのは、だいたい飛鳥時代あたりから奈良時代になる。奈良の都の発掘がたくさん行われているが、奈良の都には二つ区画、平城京と平城宮がある。平城宮の中に宮殿や役所もあり、そこからは箸が割とたくさん出土する。ところが民衆の住んでいた平城京のほうからはあまり箸が出ない。それで、その頃の役所や宮殿というのは、朝廷という言葉があるように、朝早くから出仕し、昼過ぎには家へ帰る。その間に給食がある。その役所の給食は箸で食べさせる。だけど家へ帰ったらまだ手掴みで食べていたらしい。それが次の時代、たとえば長岡京とか、その後の平安京になると、もう庶民でもみんな、家庭でも箸を使うようになった。
そういった「箸で食べる」中国文明の影響が及んだところでは、やはり料理に特徴がある。何でも箸でつまめるように小さく切り刻んで、それから熱をかけて料理する。世界の中でもそういった特徴がある。

麺の文化史

それから、麺類というのは中国で出来たものである。私は『麺の文化史』(講談社学術文庫)という本を書いたことがある。アジア中の麺を調べて分かったのは、小麦はシルクロードを通って西からやってきた、しかし麺は中国で出来たということ。
中国では箸と椀型の食器が古くから発達しており、熱いスープに具を入れ、その具を箸で食べていたわけである。一方、小麦の食べ方として簡単なのは、粉を捏ねて団子にし、そのままスープに入れて炊く、すいとんみたいにしたら一番食べやすい。それをやっているうちに、これを細長く延ばしたら表面積があって汁が染みこみ、またツルツルとたくさん食べられる。そういったことにより中国で麺が出来る。それが日本や朝鮮半島に広がる。それから、シルクロードを伝わってずっと西側に行きペルシャ文明に入る。今度は、アラブの文明に入る。そしてシチリア島がアラブの支配下であった頃、シチリアに入り、それが今度はイタリア本土に入る。それでスパゲッティになった、という話です。
そこで、あのスパゲッティ、今だったらフォークで食べる。その前はどうしたか。箸がないから、手掴みで食べていた。ヨーロッパだとか西側の世界、インドもふくめ全部皿の文化で椀の文化ではない。だからスープもスープ皿で食べる。スープだって、もともとは液体ばかりではなく、ボルシチとかミネストローネのように具がたくさんあり、汁はまたパンをそこに浸けて吸い込ませて食べていた。そういった所なので、スパゲッティを食べる時も、西側では皿に盛ってソースをかけ、手でつまんで、ちょっと冷めてから食べる。19世紀のナポリの版画などでも手で食べている。
それが19世紀、ナポリのスパゲッティがイタリアの中でも大変名物になった。ナポリの宮廷でも名物のスパゲッティを外国からの客などにも食べさせた。だが、手ではちょっと格好が悪い。それまで、フォークの刃先は2本か3本だったが、ナポリの宮廷で、スパゲッティを挟んでくるくる巻けるように4本のフォークにし、それでスパゲッティを食べさせた。そのフォークが今、日本やヨーロッパで普通になっている。フォークは4本の刃先が多い。
また、箸と匙ということで言ったら、中国でもご飯を匙で食べていた時代がある。しかし、中国ではその後、ご飯は箸で食べるようになった。そうすると、中国でも中華料理屋では匙と箸が出るが、普通の、たとえば田舎の百姓の家などだったら、食事はだいたい箸で食べる。匙も置いてはある。だが一人に一つずつあるわけではなく、貧乏人の家では2つ3つ置き、何に使うかといえば、食べ物にかけるタレとか、あるいはスープを真ん中に大皿で置いて、それをお茶漬けのようにして食べる時、スープを椀に入れたりする時に使った。
ところが朝鮮半島は、昔から中国の古い風習を取り入れ、それをずっと守っている。なぜ守ったかは時間がないので言わないが、朝鮮半島では今でも、家庭の食事でも、スジョ、箸と匙が必ずセットで置かれる。ご飯も、箸で食べる人はいるが、朝鮮半島、韓国の正式な食べ方としては匙で食べる。
日本でも奈良時代、平安時代の宮廷では、ちゃんとした宴会料理の時は箸と匙を使っていた。しかしながら、匙はそのように宮廷だけで使われ、庶民には入らなかった。そして宮廷文化がどんどん衰え、鎌倉時代から後になると、宮廷の宴会でも匙を使わないようになり、日本人は箸だけで食事をするようになったわけである。

◆肉を食べなかった日本の食

さて、まだまだこういったことを話しだしたら切りがないが、時間がないので、少しはしょろう。
アジアの食事の中で、日本の一つの特徴は、長い間肉を食べなかったことである。
縄文時代からずっとイノシシやシカをよく食べていたわけだが、やはり日本が仏教国家になったことで、天武天皇が出した古代の肉食禁止令(675年)が最初にある。奈良時代や平安時代は忘れられなかった肉の味だったが、平安時代の終わり頃になると仏教がどんどん強くなり、さらに神道でも肉食を穢れとしたことで、都市から肉は食べられなくなってきた。
室町時代ぐらいになると、本当に町中でもあまり肉は食べなくなる。もちろん、全く食べなかったわけではない。「薬食い」と称して、病気になったら、肉(イノシシやシカ)を食べれば元気になるというのはあった。その肉を、病気ではない健康な人でも薬食いと称して食べたこともある。
明治時代になって肉食が復活するが、国民の栄養としてはたいした役割を果たしていなかった。スキヤキを食べるようになったくらいではないか。もっとも信用の出来る統計として、大正時代の前半だったか、1910年代、陸軍の糧秣庁が国民の栄養調査をやった。それで計算してみると、(鶏肉から何から全部合わせて)肉を食べるのは国民一人当たり、3.75グラム。となると、一カ月分を合わせてもスキヤキの一回分に当たるかどうか。現在は肉をたくさん食べるようになったが、そういった肉を食べない、という特徴があった。
実は朝鮮半島もある時期、肉を食べなかった。それがモンゴルに征服されて、肉を食べるようになった。朝鮮半島では肉食が復活したわけである。肉を食べるということは、肉の脂もあるし、油に対する嗜好もある。だから中国料理では油を大変よく使う。中国料理ほどではないけれど、朝鮮半島の料理でもゴマ油を使う。
日本にも天麩羅があるじゃないかという。だが天麩羅なんていうのは、戦国時代にやって来たポルトガル人が伝えた料理。一般の料理とは差別して、だいたい江戸時代なら露店で食べる、ちょっと下品な料理だったわけである。「油っこい」というのは、明治時代になっても、日本人には大変下品なものといった評価があった。油というのはコクがあるだけではなくて、最近分かったことでは油っけのあるものを食べると大脳の中にβエンドルフィンという快感を作る物質が生まれる。そのため油の美味しさに病みつきになるという。
そういう油を使わないのが日本で発達した食べ方で、油の代わりにうま味を使う。だしの文化である。昆布とか、カツオ節、煮干しは明治時代になってからだが、そういっただし専用食品というのは日本だけで発達した。肉でだしをとったりするのは中国でも韓国でもある。その肉はそのまま食べる。ところがカツオ節や昆布はだしをとったら、あとは廃物利用で佃煮にしたりするがそれでおしまい。だし専用というのは日本だけである。
日本では、魚と野菜、とくに野菜がおかずの主流だった。野菜は、そのままではあまり味がない。ヨーロッパでも野菜だったら油を使ってサラダにするとか工夫する。それを日本では、だしを使ってうま味を加えたわけである。

◆うま味の文化圏

さて、次の図をご覧いただきたい。
このアジアの稲作地帯から始まったものに塩辛がある。塩辛というのは、塩で魚や魚介類を漬け込み、それによって、タンパク質が分解してアミノ酸ができる。
私は塩辛類の研究したことがあり、東南アジアとか、いろんなところの塩辛をみてきた。魚の種類は違う。作り方も違う。しかし塩辛系の食品というのはアミノ酸分析をすると、うま味のもとになるグルタミン酸が一番多い。
この塩辛をそのままずっと置いておくと、どんどん分解が進んでドロドロになる。ドロドロになった上の液体だけを取って漉せば、それが魚醬油になる。日本でいえば香川のイカナゴ醬油、能登半島のイシリ、秋田県のシュッツルなど、魚で作った醬油のようなもの。同様のものがベトナムのニョクナム、タイのナンプラーとか、そういったものが東南アジアのあちこちでできる。そして液体にするだけでなく、塩辛そのものを調味料として使ってしまう。すると塩味とうま味がある。塩辛は煮物でも炒め物でも使われ、東南アジアの台所の必需品というわけだ。
さて、なぜかという説明は省くが、水田稲作地帯に塩辛というのは必ずある。稲作とともにある。それが中国の水田稲作地帯に入と、塩辛作りに変化が起こる。中国では古くから酒造りに麹を使う風習があり、塩辛に麹を入れるようになった。それをやっているうちに、魚の代わりにタンパク質を含んだダイズとか、ムギとかで代用するようになった。すなわち、塩と麹と穀物や大豆などを発酵させる、これは醬(ひしお)である。こうして中国で穀醬(こくびしお、コクショウ)が生まれ、朝鮮半島、日本に伝わってくる。これが味噌や醬油の祖先になった。
世界の中でも肉をあまり食べない、牧畜文化をもたなかったアジアでは、やはりうま味に対する嗜好ができて、それが穀醬や魚醬になった。これがアジアである。その中で、日本では味噌や醤油が特別に発達し、日本料理ができたわけである。
もう時間がないのでこのぐらいにして、ご質問を受けたい。

うま味の文化圏

【質疑】

飯田●せっかくなので、ご遠慮あるかと思いますが、何でも結構ですので。
先生●質問が出る前に、一つ言い忘れたことを話しましょうか。
たとえば、日本料理と一番似ているのはどこだと思いますか。中国でも四川料理とか、いろいろな料理がありますが。私が思うに、朝鮮半島の料理というのは、料理技術が実は日本料理と一番よく似ているんです。ところが味はまるっきり違いますね。それはニンニクと唐辛子。やはり肉を食べるようになって、ニンニクや唐辛子が朝鮮半島で、とくに料理に使うことが発達して、料理の技術は似ているけれども、まるっきり違った味になりました。
もっとも、唐辛子を使って朝鮮民族が料理を作るようになったのは、案外新しくて、どうもあれは日本から入ったようです。朝鮮半島で料理に使われるようになったのは18世紀の終わり頃から。一般の家庭で漬けるキムチが、赤く辛くなったのは19世紀から後のこと。今のようなキムチになってからそんなに時間は経っていないんです。
ハイ、何でもご質問をどうぞ。
会場から★海外へいらっしゃって、一番おいしかったなあと思うお料理は?
先生●これは難しい質問ですね(笑い)。私は食いしん坊なもので、世界のさまざまなところで、ずいぶんいろんなものを食べてきました。それで、ちょっと今のご質問、変な方向でお答えします。何がおいしいかというより、私の舌でわりとおいしい地帯――それも美味しいものがたくさんあるということより、一番大事なのは民衆がふだん食べているもので、私にとって不味いものが少ない所。何を食べてもまずくなかったら、全体のレベルがいいだろうと。
そういうことで言うと、私にとっては2つあります。ひとつは地中海の沿岸。イタリア、スペインだけじゃなくて、地中海を取り巻くギリシャやエジプト、アルジェリア、モロッコなど。この辺りの料理というのは、だいたい露店の料理を食べても不味いものには当たらない。もうひとつは中国です。それはおそらく私だけではなく、皆さんも行ったらそうかなあと思われるでしょう。
それから、私のわりと個人的な嗜好でしたら、わりに辛いものが好き。それで朝鮮半島の料理、結構いけるなと。何か、お答えになったような、ならないような。
会場★ありがとうございます。
飯田●ありがとうございました。では時間ですね。
先生●ご清聴ありがとうございました(大きな拍手)。〈了〉