Washoku 「和食」文化の保護・継承活動の報告コーナー

『和食の無形文化遺産化;意見交換会』に密着 その5

2013年06月21日(金)

REPORT

〈第2部〉活動報告会 意見交換とスローガンの発表

「活発な議論で想いをぶつけ合い、熱いスローガンに結晶!」

食の文化センター飯田事務局長の司会で最後のセッション、意見交換とスローガンの発表となった。まず久保田室長が、食文化ナビと食改さんの活動との関連から口火を切る。

◆気づきを記録、震災の経験も貴重な財産として伝えていこう

久保田室長 「食文化ナビはふだんの気づきが大切で、どなたでもどんな活動でも使えるもの。午前に説明したキーワードを、じつは皆さん無意識のうちに実践されている。改めてこれまでの活動をふり返って何が足りないかに気づき、そこを改善しながら使ってもらえたら幸いだ。我々行政も皆さんの意見を聞いて気づくことが多い。今後に生かしたい。例の予算事業にはぜひトライしてほしい。専門家が審査・選抜して50地区をモデル地域とする。計画の提出も必要なので今年はタイトかもしれないが、来年再来年も継続したいと思っているからチャレンジを。震災の時、私自身は麦を扱う部署にいて、とにかく全国からパンやカップ麵をかき集めて被災地へ送ろうと。その時はよかれと思ってしたが、それによって健康を害したという話もあった。震災はその瞬間だけでなく継続するものと改めて勉強させられた」

大和田(新地町) 「避難所に出荷できないモヤシがどっと届くと朝昼晩モヤシ。パンが集前川(味の素)「私は岩手県からずっと被災地を見させていただいたが、山元町の大きな違いは町の記録誌にも書かれているように3月13日、14日の段階で管理栄養士が献立を作り、統一献立での中央コントロールが始まっていること。それが大きかったのでは」

佐藤(山元町) 「混乱していたが、たまたま食べ物がなく人がこのままでは、という状況だったため、集団給食のように一括調理という形をとらせてほしいと、健康福祉課で炊き出しの食材は全部中央にもらい、それを一括で避難所に渡すという態勢がとれた。それがないと、どっと来る物資を『食糧』ではなく『食事』として提供することは難しい。態勢を作る時にどこが中心になるかは大事。山元町では婦人防火クラブは動けず、私たちが頼めるのは食改さんしかいなかった。体験したことを忘れてしまうので記録を残し、おかげさまで記録誌は西日本の方からも資料にしたいと問い合わせをもらっている」

司会 「地域のよい食文化があったことで震災が乗り越えられたという部分はあるか」

佐藤 「昔から、葬式や祝い事など隣近所が寄り合って食べ物なども用意した。炊き出しも一つの食文化で、それが震災の時にも発揮された」

司会 「それに気づいて、今はやめていたけれど祭りや行事の時みんなで食事を作って食べることが災害時にも役立ちそうだからやろうとか、そういう価値観の変化などは?」

佐藤 「地域の中で集まることを大事にしようという機運は出ている。人が集まれば、漬物など持ち寄る文化はある」

渡辺(南相馬市) 「南相馬はスーパーも何もかも閉まってしまった。農家では備蓄米、家にある程度玄米を保管しておく習慣がある。いざと言う時は皆それを出してくれて、避難所にも持っていってくれたんじゃないか」

 

(停電していて精米ができないかったこと、玄米をそのままお湯で炊いたり、ヨーグルトを入れて炊くとよかったという声も出た。どんなご飯になるんだろう)

 

室長 「そういう得られた知識など、ぜひ書き留めてもらい、残しておくと大きな財産になる」

岡崎 「今回感じたのはお米の大切さ。お粥でも何でもできる。米と味噌が日本人にとって最初じゃないか。それを大事にしていき、後からついてくるのが食の文化じゃないか。米と味噌を無形文化遺産にしてほしい」

齋藤(新地町) 「発酵食品もぜひ取り上げてほしい。日本古来の知恵だと思うので」

室長 「ユネスコへの申請書にしっかり書いている。米もそうだし、うま味、発酵食品も。実は食文化は防衛的に生まれてきているという側面もあり、受け継がれて文化になった。今度の震災で気づいたことなども、何年かしたら食文化の原点になることも。改めて古いものを見直したり、新しく見つけた米の食べ方だったり新しい発想が新しい食文化にもなっていく。食文化も姿形を変えながら発展していく」

阿部 「世の中の発達と食文化の関係は難しい。若い人はすぐレトルトなど工業製品を買うが、早くできて味もいいとなると、私たちの食文化はどうなるのか」

齋藤 「そういう時代だからこそ、ユネスコの登録は必要と思う。『自分たちが食べているものと違う』と三世代同居の家のお年寄りは皆言う。なぜなのか。親世代は働き盛りで、疲れて帰宅して一から手作りするのは不可能だといい、出来合いや半調理品など利用する。孫たちはその味に慣れ、ママが作ったのは美味しく、ばっちゃんが作った煮物は食べないと。全然食卓が別らしい。実は私、今日の会の趣旨をあまりわからず来たが、皆さんの話を聞いてきて、世の中の食生活が変わってきたために残しておかなければならないものがたくさんある、と気づいた。ユネスコ大賛成」

大和田 「昔は、季節のものを季節に食べた。今は夏のキュウリが冬でもあるし、年中どんな野菜も食べられる。私たちもそれに慣れてきている。やっぱり地元のものを季節で食べることのPRが必要。この機会に、郷土の食と郷土の生産、春夏秋冬のある食べ物を推奨したい」

室長 「『食文化を語る』というのは意外と歴史は浅く、実は贅沢なこと。飽食の時代だからこそで、かつては食糧確保で精一杯だった。昭和55年頃が理想的な日本型食生活と言われる。それを基準に語っているわけで、おそらく今の理想の食文化はごく歴史が短い。つまりそれくらいの勢いで食文化は変化していく。その中で失ってはいけないものは何かチョイスし、若い人たちにも興味を持たせるような形でアレンジしながら伝えていく工夫をしなければならない。食育等で模索しているが、変化を否定すると全く若い人には受け入れられない。変化する中で大事なものをどう伝えるか、みんなで知恵を出していかなければ」

司会 「皆さんの年齢で食を大事と思うのと、働いている世代のそれとはやはり差があるのか。それとも大事と思うが選択として出来合いを買うのか」

室長 「参考までに。統計的にはどの世代も主食はご飯、一食当たりの量は減っているが。今、小学生の給食もご飯なので、結構ご飯と味噌汁の美味しさを知っている。むしろ今の20代、30代の食生活が乱れているようだ。彼らも年を取れば戻っていくかもしれないが。結局、幼児期に味を覚えれば、一時期離れてもまた戻ると思う。その基盤を小さい時に、親や学校がしっかり作ることが大事」

大和田 「例として。友人の四世代の家は、祖父母が山菜採りやシジミ取りなど、採り物が大好きな家庭で、孫たちは小さな頃から、ワラビや魚、貝などを食べて育った。この子は、保育所ではやんちゃだが、他の子がいろいろ好き嫌いを言う中で、何でもよく食べると。やはり家族の中でどんな食生活をするかが大事では」

齋藤 「味覚は10歳までに決まるという話も聞いた」

室長 「京大の伏木先生といううま味の大家は、3歳までと言っている。そうすると、3歳までに親がどう意識して味を教えるかにかかってくる」

司会 「食改さんのミッションとしてやはり『健康』が第一義的にあり、これまで『文化』ということではあまり議論してこなかったと思うが、こういう場で、文化の継承とはどういうことか、どこに重点的に力を入れるかの合意があれば、みんなの力を結集できるのでは。今日がキックオフとなり、食文化について話す機会が増えればと思っている。ふだんの活動で食文化は意識していないか」

岡崎 「郷土料理の継承という活動はある」

渡辺 「南相馬は、震災と原発事故があり、健康に基づく食改の活動がどうしてもメインになる」

室長 「先ほども言ったように危機管理・防衛本能から食は形成され、本来ならその土地で採れたものを食する。人間の体もそれに適応している。例えば腸の長さとか、乳を飲む習慣を持たなかった日本人に乳糖不耐症が多いとか。文化と健康には、実は表裏一体の面がある。どの国も、その地域に応じたものを食べてきたからこそ違う食文化ができてきた。ユネスコは、グローバル化し、だんだん画一化していく中、その多様な食文化を尊重し合って守ろうというのがそもそもの趣旨。そういう意味で、地産地消は健康と深くつながっている。

郷土料理についても一言。もちろん大事な食文化の一つだが、誰にどう伝えるかによって言葉の使い分けが必要ではないか。売りになる時も退かせる時もあり、場面によって若者にはダサく聞こえたりする。どうしても頑なに守るとか、全然変わらないという先入観もあったりするので、ケースバイケースで使い分けることもこれから重要かと思う」

司会 「それでは皆さん、それぞれのスローガンの打ち合わせに入ってください」

4地域のメンバーがそれぞれ集まり、討議しながら各スローガンのまとめ作業が行われ、紙に書いたスローガンを持って最終の発表に臨んだ。

◆食改さんの決意をこめたスローガンに、室長も熱く講評

残り30分、最終章のスローガン発表は意見交換と逆の南相馬市から始まった。

南相馬市 「伝えていきたい食文化。原発事故のあった私たちの地域ならこそだが、放射能に汚染された土地をいつかは甦らせ、地産地消を生き返らせたい。地域のブランド野菜などもいつか復活させ、子どもたちに伝えていきたい。食文化を現代に合わせて発展させ、子どもたちの時代に合わせていく」

山元町 「一緒に作って一緒に食べよう! 震災の後、私たちは食の大切さを身をもって体験した。お母さんが子どもに、おじいさんおばあさんが孫に、お嫁さんに、仮設の人たち同士も互いに、伝承料理であれいろいろな体験をふまえて伝えていくことができるのではないかと」

新地町 「地場産でバランスとれた食生活 家庭で築こう食文化。自分たちの地域で作られた産物を大いに活用し、私たちの活動テーマである『主食・主菜・副食のそろったバランスよい食事』をと。食事バランスガイドなどを食生活に取り入れて、家庭で郷土料理なり食文化を築いていこうということで提案する」

亘理町 「もう一度思い出そう。亘理の味を! そして楽しく健康づくり。亘理町は4地区のうち吉田、荒浜の2地区が津波被害で仮設にいるが、そろそろ自分の土地に戻って生活しようとしている。そこで、もう一度、震災前に作った家々の味を思い出そうと。亘理の味も家庭ごとに違う。よく郷土料理教室で言うのは、今日作るのは世界で2番目の味、一番はわが家で作る味ということ。その世界で一番の味に今戻ってほしいと思い、このスローガンを作った」

 

まとめとして、久保田室長の講評。

室長 「偉そうに言える立場ではないが、たいへん勉強させてもらった。南相馬の放射能汚染をとらえた話と亘理町の思い出そうは、本当に被災地ならではの切実で率直な想いだと思う。我々はその声をしっかり受けとめ行動しなければならない。また『現代に合った食文化』も重要なキーワードだ。共通するのが『子どもに伝える』『家庭・家族』。いかに伝えるか、そのきっかけを普段どうつくっていくか。やはり押しつけがましいと抵抗され続かない。ねばり強く理解を得ながらやっていかなければならないわけで、その非常に難儀なことを率先してやってくれている皆さんを尊敬し、ありがたく思う。

 

私は農水省にいて、我々役人、農家の方々、食品産業の方々、そういう世界で成り立つところで仕事をしてきた。実はこういう末端の現場で食をつなぐ役割をする組織的な、地道な取り組みがあるということを、皆さんのお話を聞いて勉強できた。こういうものがあるから、被災の際も動けたのだと。私が仕事をしていく上でも宝になった時間だと思う。

 

今日私が言いたかったのは『交流と発展』。異文化の取り入れや新しいことへの挑戦を恐れてはいけない。伝統を守ることは防衛線を張り頑なに守るのではなく、あえて新しいものに挑んでいかないと古いよいものも見えてこない。日本の食文化も、中国や西洋の文化を受け入れ、よいところを取りこんで今日の姿ができている。伊達藩と相馬藩の話も出たが、日本の小さな村や藩が集まって一つの国となり、一つの日本食文化を形づくった。しかし郷土料理というように多様な食文化も生かされている。これが大事。これから地球単位で見たとき、日本と他の国の食文化はどんどん交流していくだろう。そのとき変化を恐れてはいけない。変化していく中で何に気づき、何が大事と思うか。いろんな世代、地域の人の声も聞きながら、それをとらえて次に伝える。発展させながら文化を伝えていくことをぜひやっていただきたい。

 

今回の震災は大惨事で、被災地になったことは不幸なことだが、そこで得たものを私たちは伝えていかなければならない。それは将来の人にとって大きな財産になるものだ。これも一つの文化の継承だと思う」

司会者に促され味の素を代表して挨拶に立った前原さん。まず、「そんなの聞いてないよ」とぼやいて笑いをとり、続けて熱く語り出す。「皆さま方にお会いして、とにかく食は大事なものだと再認識した。これから復興する原動力は、お金もあるかもしれないが、主体はどこまでいっても人。その一人一人の人は何でできているかといったら、食べたものでできている。では何でも食べればいいかというと、やはり食事という一つのセットになっていなけりゃいけない。そして誰と食べるかも重要。『一緒に作って一緒に食べよう』というスローガンがあった。我々が今、毎日活動している現場がまさにそうだ。一人で食べていた人が、あそこに出てきてみんなで食べる。そこで新しいコミュニティができた。これが文化の基本パターンだろう。今度の大惨事は忌むべきことだが、逆にそれがあったからこそ見えてきたものもあると思う。かくなる上は、そこで得た貴重な食に関する教訓をもう一度かみしめ、次世代に引き継いでいけたらと感じている」。

 

最後に会全体を鈴木専務理事が締めくくる。「食生活についての知識は皆さんあるが、それ以外のパワーを強く感じた一日だった。印象的だったのは、一緒、家庭、子どもなどの言葉が、スローガンや説明で一様に出てきたこと。食文化の専門家の方は、共食(共に食べる)が人間の食の特徴だという。それに通じるものと思う。また、伝統は変化するものという話もあった。私の個人的な気持ちとしては、できれば豊かな方向へ豊かな食文化へ変化してくれたらと思っている」。

 

大きな拍手で会を閉じ、皆さんで記念撮影。朝10時から始めて夕方4時まで、なんという充実、熱き想いのこもった会だった。

解散後、前原さんの案内で、海の方向に車で向かった。家屋が流され、むき出しになった家の土台がどこまでも続く。海岸線が近くなると、ブルドーザーやパワーシャベルなど多数の重機が入っている。土地の嵩上げをしているのか。海辺は、コンクリートの堤防が無残に壊され、ゆがんだまま残されていた。これが津波の破壊力なのか。圧倒的な力に、しばし足がすくんでしまった。大震災からすでに2年以上が過ぎ、この状態とは。いまさらながら、食改さんたちの悲しみ、苦悩が思いやられる。しかし彼女たちは笑っていた。人はたくましい。それを支えるのはまた食でもあるのだ。 (了)