Washoku 「和食」文化の保護・継承活動の報告コーナー

鰹節発祥の地、印南町を訪ねて その1

2013年08月20日(火)

主催 公益財団法人 味の素食の文化センター

REPORT

訪問1日目

「小学生の学習会を聴講、まずは印南の歴史を学ぶ」

今回は、東京を飛び出し、一路西へ、大阪で乗りかえて紀州へ向かう。公益財団法人味の素食の文化センター(以下、食の文化センター)の鈴木郁男専務理事、大阪から合流された奈良女子大名誉教授の的場輝佳先生に同行しての旅だ。降り立ったのは印南駅、ふり返ると線路の向こうにかえる橋がにっこり。うーん快晴、空気もいいなーと思わず深呼吸。改札を出ると、前日入りした飯田事務局長(食の文化センター)が今や遅しと待っていた。

お世話になる宿に荷物を下ろした一行は、初日のメインテーマ、印南を訪れている小学生たちが郷土史家から受ける学習会を傍聴させてもらうため、会場のお寺に急ぐ。門構えも鐘楼も立派な印定寺がその場所だ。

◆地震・津波の記録が証明した「鰹節発祥の地」

印定寺さんでは、講師役の坂下緋美(ひみ)さんに迎えられた。この坂下さん(先生と呼びたい方です)が、実は今回の企画のキーパーソン(そのいきさつはまた後で)、印南町文化協会の会長を務められる一方、語り部として多くの人々に印南の歴史を伝えている。

この日の子どもたちは民泊体験に来ている、高野山の麓のまち、九度山小学校5年生の皆さん。テーマは「印南の三大地震津波」の学習。用意されたプリントとパワーポイントで進められる。やはり、東日本大震災があって、いま東海から南海への連動大地震も心配されている中、その史実や教訓をしっかり語り継ごうということなんだろうな。

 

みんな揃って阿弥陀様の前で合掌し、学習会が始まった。坂下さんは名前といっしょにニックネームは「ペコです」と自己紹介(「似てる似てる」と的場先生の合いの手)、まずは掴みで子どもたちの心をがっちり。すかさず、クルージングで回った場所を聞き、そこが熊野古道の始まりと語る。歴史の深さと地元の世界遺産につなげ、印南への興味をかき立てる。明るくユーモラスで弾むような話術。素晴らしい語り部さんだなあ(この旅をずっと通しての実感です)。

そして、「山の中の九度山に津波は関係ないと思うかもしれないけれど、地震はどこであるかわからないからしっかり勉強してね」と本題に入った。印南を襲った津波は大きく3つ、宝永南海地震(西暦1707年)、安政南海地震(1854年)、昭和南海地震(1946年)、その一つずつを語っていく。

今から306年前に起こった宝永南海地震の津波により、印南では170名余りが亡くなった。うち子ども30名、女性118名、男性は26名だった。史実は、13回忌につくられた合同位牌としてこの印定寺に残された。裏書きには、ほぼ全滅となった悲惨な様子が記されている(プリントの記述を坂下さんが朗読)。また、パワポでは、お隣の絵の上手なおじさんが描いたという再現画もいろいろ見せながら解説、子どもたちにもわかりやすい。300年も、大事に祀られてきた位牌は、後の世の人の無事を願ってのものでもある。

さらに位牌の表面に記された戒名に注目。上の2人目が「その人」、角屋甚太郎だった。

「みんな鰹節って知ってる? お好み焼きなんかにのせる、もともとの形を見たことある?」と問うて、「その鰹節を発明したのが、印南生まれの角屋甚太郎さんで、この大津波で亡くなりました。その戒名がこれです。この人が基礎をつくり全国に広がりました。みんな鰹節食べる時この名前を憶えておいてね」、3回言えば頭に入るからとみんなで復誦。昔は「紀州の甚太郎」と伝えられていたのが、この位牌で印南の人とわかったことを紹介した。いわく「宝物のような歴史の証明」である。

さて、宝永の地震から100年余りたって起こったのが安政南海地震。マグニチュード8.4と推計され、地震の規模は宝永南海地震と同じだったのに、なんと死者はゼロ。宝永の教訓が100年以上人々に広く伝えられ、素早く避難できたからという。これには、戎屋の楠次郎という12歳の少年の記したものが残されている。5年生はほぼ同じ年頃、坂下さんは子どもたちに音読を促し、最初小さかった声もだんだん大きくなっていく。余震が続き要害山で16日間過ごしたといい、「井戸の水もあり、川の水もあるので、大地震がゆったら(揺れたら)すぐに要害山に逃げなさい」と。

3つ目が、昭和南海地震。印南では17名の死者を出した。地震規模は前より小さかったが、暗い明け方で大混乱し、また楠次郎くんの教訓も一部の人にしか伝わっていなかったからと坂下さん。ご自身もこの地震を体験され、浜で一晩中塩を炊いていたおじさんの声で逃げられたことなど話された。

大地震が起きたら、とにかく海や川から離れ、できるだけ安全なところに避難するのが鉄則。だからこそ印南の3つの経験は、子どもたちの津波学習として貴重な伝承になるんだなあ。

 

そして話は再び、印南と鰹節に。

先の角屋甚太郎が紀州沖を閉め出されて西を目指し、土佐の海で格好のカツオ漁場を見つけた逸話は、「人間諦めなければいいことがあるよ」の教訓とし、九州枕崎に製法を伝えた森弥兵衛、房総・伊豆に伝えた印南與市には、黒潮の海を渡っていく勇気とロマンを語る。印南は和歌山の小さなところだけれど、こんなに頑張った人がいた。だから今、鰹節が日本中で食べられるんだよ、3人の名前を声に出して覚えよう。

そして、祭りの習俗にもふれ、「印南の歴史にはまだまだ自慢話があります。同じように皆さんも九度山の歴史を大切にしてね」。

これで〆かと思ったらおまけつきで、角屋の子孫、与市とオサナの悲恋物語(詳しくは別に)も紹介(男前とべっぴんさんに坂下さん手作りで奉納した人形もあり。なんと多才な方!)。

最後は、仏様にみんなで合掌。「南無阿弥陀仏」と3回唱えて、ありがとうの代わりとした。

子どもたちは、合同位牌がつくられた時に建立されたという墓もお参りし、坂下さんにお礼を言って、次の体験の場所へと元気に出発していった。

◆町役場を訪問、要害山にも登る

私たちも、印定寺さんを後にし、坂下さんの先導で、町役場へ向かった。翌日から出張に出られるという日裏勝己町長さんへのご挨拶だ。秘書政策室長の岡本晃一さんも交えて、伝統の真妻わさびはもちろん、ミニトマトや絹さやなどの豆類ほか、多彩な特産物の話をうかがい、ユニークな「かえる橋」についてもレクチャーを受けた。

この橋、一見突飛じゃないかと思ったけれど、さまざまな想いがこめられていて、なにかマスコット的なものでもあるのかな。一度見たら忘れないし、言われてみると、町のそこかしこにカエルのモニュメント(大小あり)もある。ミニトマトにも赤糖房(あかとんぼ)、優糖星(ゆうとうせい)などユニークなネーミングを施す町だもの、かえる橋も同じノリかな、と納得。

 

次いで、印南町公民館を訪問。今回の意見交換会(印南町の和食文化を考える)の会場であり、2日目には鯖鮨作りの体験もさせてもらえるところだ。ここでは印南町教育委員会、岡本徹士教育長さんを表敬訪問。

これで1日目の日程は終え、宿に帰るところだったが、急きょ「お話にあった要害山に登ってみたい」と坂下さんにお願いし、案内していただくことに。登り口は、確かに狭い。暗いなか人々が押し寄せたら、子どもはなかなか登れないだろうなあ、と坂下さんの話を思い出す。要害山は、山といっても標高は15mほどで、いわゆる「山」ではなかった。要害、つまり昔の砦のようなもので、史跡碑も建てられていた。

正面には、印南の港、その向こうに海が広がる。山の足もとには、漁師町らしい風情の家並み。あの海が盛り上がって襲ってきたら……再び話がよみがえる。うーん、この気持ちのいい夕暮れ近い海の景色からは、なんだか想像できないなあ。でも、この地の人たちは、教訓を忘れないように伝えながら生きていくんだ。海を眺めやる面々も感慨深げだった。(その2に続く)