Washoku 「和食」文化の保護・継承活動の報告コーナー

鰹節発祥の地、印南町を訪ねて その6

2013年08月22日(木)

REPORT

訪問3日目

「印南町の和食文化を考える・意見交換会~和食のユネスコ無形文化遺産化活動について知る~」〈4〉第二講演

地元の活動例発表が終わり、お待ちかねの二つ目の講演、髙田郁先生のお話が始まる。

最初に、事務局長の飯田さんが、先生のプロフィールを紹介。時代小説『みをつくし料理帖』の著者で、シリーズは現在8冊目まで刊行され大好評、テレビドラマ化もされ、こちらも人気を博している。食の分野の時代小説ということで、資料調べにも余念がない。髙田先生は宝塚にお住まいなのに、東京の食の文化センターに通いつめ、ライブラリー(4万冊の蔵書)にこもって古い文献に首っぴき。そのご縁で印南町へもいらしていただくことになったと、今回のいきさつも語った。

(併せて、シリーズの本を食の文化センターから公民館に寄贈し、昨日髙田先生が一冊ずつ楽しいサインをしてくれたことも紹介。帰りがけに、皆さんさっそく手にされたのでは)

◆「江戸時代の食事について」:髙田郁先生(『みをつくし料理帖』シリーズ著者)

「実は印南(いんなみ)と思ってました。地図を見て初めて印南(いなみ)とわかって」開口一番、髙田先生は正直に告白。その初めての町・印南での江戸噺が始まった。

 

さっそく小説の世界へ。

主人公の「澪(みお)」は大阪生まれの女の子。1802年の淀川の大洪水(これは史実)で両親を亡くして孤児となり、大阪の名料亭「天満一兆庵」で奉公することに。天性の味覚を主(あるじ)に見出され料理の修業に励むが、店は隣家からのもらい火で焼失、主人夫婦は澪を伴い、江戸の店を任せていた息子を頼って上京するが、すでに店は潰れ肝心の息子は行方知れず。失意のなか主人は亡くなり、澪は病弱な女将さんを抱え、いつの日か天満一兆庵を再興するという夢を胸に働き始める―。そこで起こる悲喜こもごものエピソード、苦労を重ねながらも料理人として成長していく澪の物語である。

大阪ではそこそこ評判をとっていた澪だったが、江戸に出て初めて作った「牡蠣の土手鍋」はお客に総スカンをくらう。江戸っ子の好きな深川の牡蠣は、殻ごと焼いて醬油をジュッ。対して土手鍋は馴染みのない白味噌でぐつぐつ煮るとなっちゃ、こりゃあいけねえや、という訳。上方と江戸の味を融合させようと悩む澪は、グルメの侍さんから「料理の基本はだし」と言われ開眼、自分の料理はだしの味(核)が決まらないから駄目なのだと知る。

そこで昆布だしと鰹だしの合わせだしを使った茶碗蒸しを考案し、料理番付の関脇になるなど評判に。しかし、澪が頭角を現すと、必ず足を引っぱる奴も出てきて―。と髙田先生は一気に語り、聴衆を江戸の世界へ誘った。

 

ところで、なぜ『みをつくし料理帖』を書こうと思ったのか。

髙田先生曰く「大学生になり、生まれて初めて東京で一人暮らしをするようになって、驚くことばかり。例えば食パン。関西では5、6枚の厚切りが普通なのに、スーパーの棚のパンはみな8枚切り。うっすい、と思って東京の子に聞くと、こともなげに2枚食べると。エーッてなもの。学食のテーブルにはソースが1本しかない。中濃ソースって何? と。関西はウスターととんかつ2種類は当たり前、使い道も違う。宝塚地域? 髙田家だけかもしれないけれど、さつま芋の天ぷらにはウスターソース。これすっごくお奨めです」

「食」って、地域によってこんなに違うのかと、つくづく実感されたとのこと。のちに時代小説の世界に入ったとき、大学時代の経験を思い出し、江戸時代ならもっとカルチャーショックが大きく、大変だっただろうなと思ったのが、きっかけだったと。

関西生まれで江戸に出て文物・習俗の違いに驚き、風俗史家として喜田川守貞が著した『守貞謾稿』にもインスピレーションをかき立てられたご様子。絵心のある御方で、イラスト入りの百科事典のような本になっている。逆バージョンが曲亭馬琴。深川生まれの読本作者で、1802年(ちょうど大水害の年)に関西を旅し、京・大坂をボロクソに書いているそうだ。江戸時代のカルチャーショックを実証しているわけなんだ。

 

さらに、時代小説を書く中で大事なことが時代考証。活字の文献ももちろんだけれど、絵にもヒントがたくさんある。続いて、髙田先生の「絵」からの情報の読み解き方を伝授くださった。

最初は「十二月の内 卯月 初時鳥」(これは、味の素食の文化センターが所蔵している錦絵です。以下の絵も)。

タイトルは「初時鳥」だけれど、ホトトギスは窓の格子の向こうに小さく描かれているだけ。主要テーマは初鰹。絵の中央でカツオをさばく姿が女性に描かれているが、本当は男の仕事。魚屋が俎板と庖丁を持って売りに来る。これは男女を入れ替えていて、こういうことはよくある。絵をじっと見てみると、奥に水がめがあり坐り流しだったことがわかる。ちなみに大阪は立ち流しスタイル。竈やへっついも江戸と大阪では違う。右下にチロリがあり、お酒のお燗ができる。

とにかく江戸っ子は初物好きで、人よりも早く初鰹を食べたい。歌舞伎役者が1本三両で買って仲間に振る舞ったという話もある。一両10万円とすると30万円、剛毅なことで、それが江戸っ子の粋だった。そのカツオも日が経つほどに安くなり、1カ月もすれば庶民の口にも入る。それが旬。関西ではむしろ旬にこだわったと。

2点目が「一陽新玉宴(いちようあらたまのうたげ)」。

安政の大地震の後で、地震で大もうけした人たちの宴。人物の顔は、当代の歌舞伎役者にしている。ここでの注目は料理の盛り方。大皿に豪華に盛る。これは江戸での料理屋の位置づけも示していて、各藩の江戸留守居役など、武士(つまり役人)が「経費」で食べる場所。片や上方では、大商人などの旦那衆が「自腹」で食べる。だから一人分ずつ盛りつける。

絵の中央手前で、お酒をつぐのが徳利。いま「お銚子」といったりするが、当時は柄のついた酒器(三三九度で使う)のことを指す。もし時代劇などで「お銚子一本」なんて言ったら、違うぞって突っ込んで。

3点目が「豆腐田楽を作る美人」。

豆腐は、この大きさで50文、いまなら1500円~1800円といったところ。豆腐はけっこう高級品だった。でも、必要なだけ切ってくれたので、庶民に手の出ない食べ物でもなかった。この絵の注目点は俎板の形。下駄の形に足がついているのは、坐って調理するから。上方では俎板は4本足で、立っても流しにはまって固定できるからと。うん、俎板一つから台所(お勝手)の姿が見えてくるのか。

さらに、田楽つながりの蘊蓄も。『守貞謾稿』によると、江戸の豆腐は固く、京・大坂のはやわらかい。よって江戸では一本串なのに、上方では二股になった串を2本刺す。へー。

 

また、髙田先生は、せっかく紀州国に来るのだからと、紀州にまつわる食の文献をと探してくださり、『幕末単身赴任 下級武士の食日記』など2冊を紹介。とくに、『幕末~』は、紀州藩の下級武士酒井伴四郎が万延元年(1860年)に同僚らと江戸へ出府、そこでの暮らしぶりが食中心にまとめられたもの(原典の日記をもとに、食文化史家の青木直己氏が書かれた本です)。大変筆まめな人物らしく、事細かに記された食生活がとてもおもしろそう。

 

髙田先生は、最後にこう語った。「場所が違えば食べ物が違う。気質も違う。土地土地で言葉も違う(いろは歌留多の江戸・大阪・京都バージョンを例に引かれて)。印南には印南の食べ物がある。この違いをいとおしく思う。文化というものはもろい、手を掛けないと廃れていくもの。だから、皆さんで手を掛けて印南の食文化を次の世代に伝えていってほしい。その意味でも、ワサビの話は嬉しかった!」と。(その7に続く)