Washoku 「和食」文化の保護・継承活動の報告コーナー

里山里海をゆき、能登町の食文化を考える その3

2013年09月30日(月)

REPORT

訪問3日目

「能登町の歴史、暮らし、食の知恵を学ぶ」

◆飛び込みで「いしり」生産者を訪ねる

3日目も朝から活動開始。前日、魚市場見学をしていない小林先生を案内して出かけた飯田事務局長は、酒垂神社も再訪し、いしり生産者さんのより詳しい情報を得てきた。しかも神主さんは、その北畠商店さんに電話で口添えくださったという。なんと親切なこと。我々は、さっそく宿の並びにあったその店を訪ね、加工場見学の約束をとりつけた。面白くなってきたぞ。

朝食を済ませ、教わった住所へ車で向かう。加工場ではすでに作業が始まっており、主人の北畠正秀さんが迎えてくれた。北畠商店さんは、本業の塩干物製造のかたわら、代々いしりを数量限定で作ってきた老舗という(商工会情報。漫画『美味しんぼ』にも紹介とあり)。いしりの仕込みは晩秋から初冬期、できるのは初秋の頃。9月末のこの時期、絞り終わっているそうで、熟成に入っているのだろう。

北畠さんは、残滓の処理が大変と語った。今は廃棄物処理の規制が厳しい。年をとり、個人で営んでいる北畠さんとしては、いつまで続けられるかと。生産者それぞれがこだわりを持ち、独自の味を生み出すといういしり。なんとか北畠さんの味も残してほしいものだが。

 

「いしり」は能登地域で作られる魚醬油の一つで、豊かなうま味成分を含む調味料。「ゴロ」と呼ばれる真イカの内臓を塩で漬け込み自然発酵させ、全国でも能登町だけで作られる。日本海側の外浦地域(輪島や珠洲など)の魚醬油は、イワシやサバを原料とし、「いしる」(魚汁)と呼ばれる。その土地で獲れる魚介を生かし使いつくす知恵というわけ。当方「いしり」と「いしる」をつい混同し、何回か訂正された。能登町の方にとって区別は歴然、食文化を考える上で欠かせない食品なのだ。(当初予定されていた(有)カネイシさんの工場見学が残念ながら実現できなかったので、生産者の方に会えたのはラッキーでした。)

◆定置網漁法のレクチャーを受ける

宿を9時前に出発、商工会館を表敬訪問し石川県水産総合センターへ。ここでは、海洋資源部の辻俊宏さんに「いしかわの漁業 とくに定置網について」との講義を受けた。

最初に、地形が複雑な石川県では様々な漁法(図)が行われるが、中でも定置網は漁獲量・金額的にも重要と位置づける。特に能登町では、県の漁獲量における25%に対し、イカ釣りを除けば60%(2647/4378t)と比率が大きい。また、定置網は獲れる魚種も豊富で、ズワイガニ、ハタハタ、貝類など、獲れないものを数えた方が早いとのこと(漁獲上位はマアジ、ブリ、サバ、マイワシ、スルメイカなど)。

石川県と能登町の定置網の位置と数も示され、大型・小型で沿岸はびっしりの印象だ。能登町の魚食文化の中核に定置網があることがわかった。

次に、安土桃山時代という起源から、定置網の歴史を網の形式や名称、素材などの変遷でたどる。現在の大型定置網(二段箱式落網が主流。「大敷網」とも呼ばれる)は、図版や写真も多用し、構造や揚網方法など詳しく解説。それにしても巨大だ。能登町の例では、身網という本体の長さが530m、横に延びる磯垣網は950m、沖垣網1700m、高さは20~80mという。イメージするのも難しいなあ。

 

さらに辻さんは定置網の特徴を以下のようにまとめた。長所は、①待ちの漁法で過剰な漁獲をしないため資源にやさしい、②漁港に近く直前まで生きているので鮮度管理が容易、③近年、金庫網で出荷調整できる、④日帰り操業のため今の生活スタイルに合い比較的労働条件が良い、⑤近年では最も安定した漁法。逆に難点は、①初期コストが高い(大型なら数億円規模)、②ランニングコストが高い(網のメンテナンスや取り替え)、③漁場を占有する(100年以上昔からの占有権)ので新規や変更拡大が容易にできない、④長年の経験や技術が必要。つまり新規参入の困難さとリスクである。

先生方からは、網の組織や株の配当、水揚げの売り方、網のメンテナンス、よく獲れる魚種の変動、漁師さんの給料や後継者問題などなど、様々な質問が出され、辻さんは丁寧に答えてくださった。定置網は歴史的経緯もあり体質的には古いようだ。高齢化の問題もある中、6カ統の大敷網のうち会社組織(有限)にしたところは若い人も多いという。そこに希望がありそうだ。

◆ここは「日本漁業発祥の地」だった!

続いて向かったのが真脇遺跡縄文館、ここで縄文人の食生活についてお話を聞く。

真脇遺跡は小さな入り江の奥、三方を丘陵に囲まれた場所にあり、圃場整備の川の工事中に見つかり、1982、83年の発掘調査で大規模な縄文遺跡と判明、89年に国の史跡としてスピード指定された。91年には、出土品中219点が国の重要文化財になったというから、いかに重要な遺跡かわかる。縄文前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)まで、約4000年間も人々が生活し続けた、他に例を見ない集落遺跡なのだ。

高田秀樹館長の案内で展示を見学した後、縄文の食についてお話をうかがった。

まず縄文時代とは。1万年以上続く安定した社会。周辺の自然界から100%狩猟・漁労・採集で食料を得るため、1年を通じ何が獲れるか認識し、その時期に獲って無駄にしない加工技術も習得していた。ポイントは獲得方法と可食化、特産物―弓矢の発明や犬を狩りに使うこと・落とし穴、土器の製造とあく抜き法など。

特産物は自家消費のほか交換も。黒曜石(霧ヶ峰産)やヒスイ(糸魚川産)は各地に出土し、全国的な物流・交換を示す。縄文社会とは、専業化・分業化が行われ、どの時期にどこで何が獲れるかわかって交流していた社会と想像できると。かなり発達した社会なんだな。

 

そして真脇遺跡へ、発掘時や出土土器の写真なども示しながら話は進む。

出土した動物遺存体から、魚類は今獲れるものとほぼ同じ(サメ、フグ、ベラ主体)で、ほ乳類はイノシシ、シカ、ウサギ他、鳥類もあり、多種に及ぶ。特筆すべきはイルカ。大量の骨が出土した地層があり「イルカ層」と呼ぶ。骨に石器の先が刺さっていたり、解体の傷が残されていることから、イルカ漁を行い食料にしたと考えられる。

縄文時代は、今以上に入り江が陸地に入り込んでいて、漁はそこに追い込んだイルカを突き取ったのではないか。数百等の群れなので、シカなどの狩猟より有利な食料源、共同で漁をし、解体・分配していたと思われる。この地域は昭和30年代くらいまでイルカ漁が行われていたので、どう捕まえ調理したか、民俗例の聞き取りも始めているという。

植生はカシ、トチノキ、クリ林が多かったと考えられる。木枡組み型施設(水場遺構)が出土しているので、復元して行ったクリの実水漬け実験も解説。聞き取り、分析、実験などをしながら、縄文人の生活を復元・推察できるよう研究していると語られた。

この地に豊かな食料資源があったからこそ、4000年もの間、人々は同じ場所で生き続けられたのだ。館の外に出ると、「日本漁業発祥の地」の碑。そうか、縄文のイルカ漁こそ漁業のルーツなんだ。我々は能登町の食文化の奥深さにうなった。

◆素朴なぬくもりある春蘭の宿

車は里山に分け入り、春蘭の宿に到着。寂れていく地域を何とかしたいと、16年前に農家民宿第一号となった多田喜一郎さんが営む。地域は今「春蘭の里」と名乗り、グリーンツーリズムで農村の再生を図り、各地から視察も絶えない。この時期100%地元産というお昼をいただきながらお話を聞く。多田さんは意見交換会で事例発表されるので、ここでは奥様も含めたやりとりから報告。

 

まず奥様がお昼のお膳を解説。煮物は山菜、キノコなどの盛り合わせ。天ぷらは野菜類と本モロコ、春蘭。ソバの辛子和え、ズイキの酢の物、シバタケとニラの油炒め(レバニラ風)、漬物はコシアブラ、ミョウガ、ナス。豆腐とキノコの味噌汁。皮ごと食べられる柿。能登ひかりの新米ご飯。春蘭のお茶。器は輪島塗を使い、昼は黒、夜は朱色。これは春蘭の里の農家民宿の共通スタイルという。夏ハゼの実の食前酒で乾杯して、さっそく食事をいただきながらあれこれ質問を。

「だしは何? いしるは使う?」と的場先生がリサーチ。「昆布と鰹節、たまに煮干し。夕食にはいしりで味つけした野菜を出す」と奥様。「昔は醬油がわりに使った。イカがいしり、イワシやサバのはしょーしり(塩しりのなまり?)と言った。いしるは最近の言い方と思う」とご主人。大黒さん「僕らは昔からいしりだった」。ここでご飯がおいしいとお代わりを。小林先生「家庭料理に近い作り方?」ご主人「ざっくばらんな料理。自分たちは宇出津から来る魚もよく食べるが、鮮度では港と競えない。お客さんには内陸部の食材の新鮮さで売っていく。川魚に限定してヤマメ、ゴリ、モロコ。連泊の方は2日目に魚か肉か希望を聞き一緒に買いに行く。魚は囲炉裏で焼き、肉は外のかまどで。皆さん満足される」。

的場先生「いろんな人と話したり飲んだり?」奥様「とても楽しい。二人とも人好き酒好きなので(笑い)。囲炉裏を囲んで話が弾む」。ご飯のお代わり続く。小林先生「食事だけの客は来る?」奥様「はい。山菜類など塩漬けなので、3日くらい前に言ってもらえば塩出しして準備できる。秋はキノコ、春は山菜採りと体験の宿でもある」。

今年初めて200人規模の修学旅行を大阪から受け入れ(春蘭の里全体に分宿)、来年東京からも来る。海外からの客もあり、中国からの修学旅行生は別れ際に涙を流したり。忙しい週末、隣は息子夫婦が戻ったり、大阪の娘が帰ってきたりして手伝う。台湾出身のワン君が、東京の専門学校のインターンシップでここに2年半来て、3年目に春蘭の里事務局に就職、台湾から彼女を呼んで披露宴をし、今では民宿を立ち上げているという話は、こちらも嬉しくなってしまった。

◆黒川集落と中谷家見学で、利水が支えた
農村の暮らしを学ぶ

車を走らせ次に向かったのは、江戸時代の天領庄屋・中谷家住宅(県指定文化財)のある黒川地区だ。案内役の山﨑昭宏さん(ムラビト・ビジョン)と区長の川崎さんが待っていてくださった。「見えるぐるりが黒川集落。盆地の真ん中に川。用水のしくみと天領庄屋の経営、地域・建物をみる二段階」と手渡された地図を見ながら概略説明を受け出発。

本業は建具職人という水野さんを訪ね、その先導で、田圃の脇道を登り溜め池のある中山堤に着く。水源は雪解けと雨水のみ。堤は昭和初期に造られたらしく、溜め池で水を確保し、周囲の原野を開墾、新田開発された。今耕作しているのは水野さんだけで、水の管理も行う。水位調節する栓を開け、水を流してみてくれた。「この辺は溜め池が多く、水利権をめぐる争いを防ぐ意味でも、溜め池中心に祭り組織・コミュニティがつくられると聞くが」と的場先生。

「中谷家がある程度管理し、昔は立て看板で指示」と山﨑さん。応分の司法権・行政権をもつ天領庄屋ならではと思う。勢いよく水が流れ出した水路を見ながら道を下り、水野さんにお礼を言って次の地点に向かう。

集落を見晴らしながら、「宝の地図」を取り出した山﨑さんは、「ここは3つの水系で田を潤している。溜め池の水(黄緑部分)、真ん中の川の水(2つ取水口があり赤・黄)、山からの沢水(エンタニ用水、水色)」と示す。高低差のある田圃が複雑な用水路で結ばれているのだ。

「この地域デザインの根本は用水のデザインで、どう最大限の人口を養えるか、先祖からの知恵の結晶。ここに見えるのは生産ランドスケープ(風景)です」「畦には大豆(畦豆)を植える人がいて、背後にある山は採集、こうして連綿とつながってきたのが日本の里山。同じように見えても個性があり、固有の存在。

ディテールに気づくと里山は豊かなモザイク。この風景には先人からのメッセージが詰まっている」。熱く語る山﨑さんを突き動かすのは、その営みが自分たちの世代で断絶するかもしれないとの危機感でもあった。

この地域デザインの成功で富が集積し、できた中谷家。用水沿いに畦道をずっとたどり、石垣の積まれた豪壮な建物に戻ってきた。江戸前期築という切妻造りの母屋。広い土間から座敷(下・中・上)に上がり庭も眺める。仏間には北陸特有の大きな仏壇。什器類など展示もある。江戸末期建造の漆塗蔵も拝見、純粋な飾りの蔵(湿気で何も置けない)で、公共事業的意味もあったとのこと。

庄屋にはパトロン機能もあるのか。天領庄屋の格式あるたたずまい。中谷家を保存するためにも、地域を振興し交流する場にしたいと言う山﨑さんに、地域を挙げて考えていきたいと大黒さん。

別れ際「能登の世界農業遺産の意味が、ここに来て初めてよくわかった!」小林先生のエールに山﨑さんも感激。450km、19日間、歩いて能登半島を一周したという山﨑さんの、能登愛も強く感じた訪問だった。

◆伝統食の調理を体験し、食改さんにリサーチ

どちらも魅力たっぷりで、つい長居し、押せ押せで次の会場へ急ぐ。商工会館でふるさと自慢レシピから、「べこもち」「金糸瓜の酢の物」の調理実習、指導してくださるのは、能登町食生活改善推進協議会の皆さん(食改さん)だ。

すでにできるだけの作業が進められていて、我々は手を洗って早速べこもちの生地を成形して蒸らしに回し、片や金糸瓜の実をほぐして酢の物の準備もお手伝い。そして皆さんと一緒に試食タイムに。

すかさず的場先生のリサーチが始まる。「いしり好きな人? 食べ方は?」他所から来て最初好きではなかった人や、山育ちだから好きではないという人も(同じ能登町でも山の手と漁師の町と食文化が違う)。イカの刺身、ゆでたナスにつけて。ナスや大根を炊く。大根を薄めに切って湯通しし、いしりに漬けて翌日焼いて(「うまそう」と小林先生)。

この場で話題に出たのが民宿ふわの先代女将、府玻千鶴子さんのこと。

40年ほど前、千鶴子さんが民宿でいしりの貝焼きを出した(現女将の話どおりだ)。彼女は食改さん(会長だったそうだ)を10年やって料理を学び、やめて民宿をスタートさせたのだと。

その食改の会が昭和34年から、五十何年もの歴史があると聞き、一同驚く。

そこに、熊倉功夫先生(静岡文化芸術大学学長)が京都から到着、試食会にも参加された。明日の朝からの意見交換会にそなえ、前日入りされたのだ。

◆クジラ談義・ブリ談義を聞く

この後、大黒さんのはからいで、商工会の関係者を囲みクジラ食の文化や寒ブリなどについて懇談する機会がつくられた。参加されたのは、商工会副会長の福池正人さん(トンネルの貯蔵場でお目にかかっている)、興能信用金庫理事長の数馬嘉雄さん(数馬酒造の先代社長。前の商工会長でもある)、(株)ヤマト社長の笹野好伸さん、そして(有)日の出大敷の取締役船頭・中田亨さん(朝の定置網のレクチャーでもお名前の出た方)と大黒さん。もちろん熊倉先生も加わってくださった。

話題豊富な皆さんなので、お話は縦横に広がり面白く展開。印象的だったトピックのいくつかを拾ってみよう。

 

【みんなで分かち合って食べるクジラ食文化】

「クジラが捕れると宇出津の町のスーパーからネギとゴボウが消える(すき焼きにする)と飯田さんに話したら、ぜひクジラのことを聞かせてくれとなった」と大黒さんがいきさつを紹介。「多い時で年12、3頭だが、定置網ではおそらく日本一」と笹野さん。中田さんが「クジラが定置で獲れると半分は仲間に分け、売るとしても残り半分。関係者が取りに来る」と分け合って食べる文化を語り、「クジラは冬。夏クジラは昔からうまくないと言われた。丸々太ったクジラがいい」。

数馬さんがクジラのヒゲでテニスラケットのガットを作ろうとして失敗した話を披露。熊倉先生は人形浄瑠璃ではクジラのヒゲが必需品と話し、「アメリカは日本の沿岸まで追ってきて灯火の油をとるだけ」と。中田さん「日本はすべて利用する。アメリカとは違う」。日本のクジラ文化は命を活かし切る文化なんだ。

食べ方について中田さんが紹介。「クジラのベーコンは波皮(肉と脂の混ざり具合がよく、全体の皮の5分の1ほどしかとれない)で作る」独特の食べ方として、「塩漬けした皮を細かく刻んで湯がき冷水で冷ます。何秒湯がくかで塩加減が変わる。宇出津の祭りは7月7日、クジラの皮のぬたを食べるのが習慣」に、「さらしクジラに似ている」と的場先生。こちらも独特という「うでもん」(内臓の塩茹で)。大黒さんは食べたことないと。 

一方「クジラの文化と言いながら、サエズリなど稀少部位を今まであまり使っていない」との反省の弁も。

 

【「御用ブリ」のブランド化を】

中田さん「ブリの一級品は10kg以上。最高26kgあった。氷見は寒ブリの季節、宿の予約もとれない。その意味で能登は発信力が弱い。自分のところは氷見に水揚げし、氷見ブリの認定を受けている」。「美味しい寒ブリは定置網に入ったもの?」と的場先生が尋ね、「氷見の定義は定置だけ」。ぜひ食べたいという先生方に、「1月終わりか2月に来れば」とのこと。

的場先生「生のまま天井から吊って食べるのは?」、笹野さん「塩ブリだと思う。金沢ではカブラズシにする。正月は塩ブリがないとダメ」。大事な保存食だったが、飛驒高山でも高速道路で生のブリが簡単に入手できる今、塩ブリは昔のものと言われたという話も。

「昔から12月にブリを届ける伝統があった。前田の殿様に最初に揚がったブリを献上した。その名が『御用ブリ』」と笹野さんが紹介し、「寒ブリの一つ上、『御用ブリ』というブランド化ができないか」と数馬さん。「遠藤(穴水町出身の力士)にあげては」と飯田さんがアイデアを出すと、「昔この町から6代横綱の阿武松緑之助が出ている」と中田さんが受け、小林先生も「御用ブリブランドをぜひ取って」。郷土の期待の星・遠藤と出世魚でもある「御用ブリ」で大いに盛り上がる。

 

【美味さの基準が脂に行きすぎていないか】

中田さん「自慢じゃないが、ここは定置の魚が北も南も獲れる。サバの12月から2月のものは貴重。寒サバは脂が乗って美味い」。でも、と笹野さん「寒サバを干物にして送ると、ノルウェーサバとの比較で脂がないと言われる。日本にはこれ以上脂の乗ったサバはないと言っても一般の基準がそうなっている」。さらに問題提起「日本の食は、肉も魚も美味さの基準が脂に行っていないか。日本食としては間違えているのでは。能登の伝統文化の発酵でも、脂はじゃまで塩締めして出し保存食にした」と。

熊倉先生「寿司屋でもサーモンが人気だ」。笹野さん「本当の日本食に戻してほしい」。ここで数馬さんが提案「脂の乗った魚はもう飽きませんか? 上品な脂をと提起しては」。

中田さん「この寒サバ使って〆鯖作ってもらったらわかるが」、笹野さん「本当のサバの味がわからんのや。だけど、福井のへしこをデパートで買ったお客さんがノルウェーと裏にあってクレームを付けた。福井の方は、それを改善しようと、日本海で獲れるサバに変えていこうとしている」と。

そこで小林先生「べつに脂は悪くないけれど、美味い脂、上品な脂をわかってもらうようにしないと」。笹野さん「それで初めて料理があって、だしを使ったり、いろんな料理法がある」。

 

最後に、小林先生から出されたクジラアピールのアイデアを紹介。それは隠れクラブをつくること(大黒さん曰く秘密結社)。「クジラを生で食べられるのはここしかない。最高の素材で、料理人も流石という人を用意して、もちろん相当のお金をいただく。皆さんが貴重なものをただで仲間に分けているというのがいい。その余り物でやる心意気のすごさ」と。夢のあるお話でした。(その4に続く)