Productions 『vesta』掲載
おすすめの一冊

「おふくろの味」幻想 誰が郷愁の味をつくったのか

湯澤規子
vesta130号掲載

味から読み解く人々の精神史

 かつては「当たり前」にあったものの、いつの間にか見聞きしなくなった物ごと。その所在を歴史の地層から丹念に想像し見出していく作業は、思いのほか難しい。それを「おふくろの味」を対象としてあざやかにみせてくれたのが、湯澤規子のこの著作だ。

「おふくろの味」は、一見たしかそうに見えてその実「幻想」ともいうべき主観性をまとっている、とするのが湯澤の基本的スタンスだ。そこから性差、世代差などによる違いがどのように異なった主観へとつながっていくのかを明らかにし、他方でそうした主観と社会がどのように関わってきたのか、その歴史を客観的なデータをクロスさせて浮かび上がらせようとする。とりわけジェンダーという補助線がここでは重視される。

 おふくろの味ということばが広く受け入れられるようになったのは、実は高度成長期の1960年代半ば以降だ、ということを湯澤はまず押さえる。その背後に湯澤が見出すのは、この時期に顕著となった若者の進学、就職目的の都市部への人口移動という事態だ。郷愁を伴った「故郷」への思いが、おふくろの味への欲求を生み出していく。また、そうした単身者の移動は、その後、夫婦と子供からなる家族という場の増大へとつながっていく。それもまた、おふくろの味と様々な形で切り結んでいく。おふくろの味の世界が織りなすいくつもの輪郭のその先に、湯澤は当時の人々の「故郷」や「家庭」といった共同性への希求を見出す。それがどれだけ実体を伴ったものであるか否かは別にして、高度成長期の精神史の一端がまぎれもなくここに刻印されていることが浮き彫りになる。

 だが、湯澤の目配りはさらに続く。おふくろの味という語が書籍のタイトルから消える21世紀以降も、その水脈を小林カツ代や栗原はるみの料理に見出す。この二人は家庭料理を広く他者に開いていく役割を果たしたというのだ。その見方は、湯澤が別の場で唱えた他者とめぐり会うための「逢食」(ほうしょく)、という考えとも通底しよう。

 それは来るべき食の姿を見通していることは確かだ。しかし、小林も栗原もともに「自分のために料理する」姿勢が基本だ、といったように起点はあくまでも自己にあることに注意したい。その先に何らかの物語を見出し、ある種の共同性を模索することは可能だろうが、しかしそうした構想はかつての「故郷」や「家庭」ほどの広がりを持ち得るだろうか。むろん、そのような共同性はもう時代にそぐわないという見方もあろう。いずれにせよ湯澤の書が浮かび上がらせるのは、一面では今、食がおかれている根深い困難な状況に他ならない。

静岡大学 教育学部 教授 矢野 敬一