中国料理の世界史
チャプスイとチャプチャイ -表記と実態のはざまで
はじめて作ったフィリピン料理はチョプスイだった。一九八八年、マニラでのことだ。
八宝菜のフィリピン版かと思えたチョプスイだが、本書によれば、一九世紀後半に米国で誕生した中国料理で、一九二〇年代の米国料理界を風靡したらしい。その勢いは米国にとどまらず、英国、さらには同国の植民地だったインドにまで及んだという。
南シナ海で隔てられているとはいえ、福建省と向かいあったフィリピンのことだ。料理にかぎらず、フィリピン社会のいたるところに中国の影響を見いだすことができる。そんな事情から、チョプスイの帰属など気にとめなかった。
著者は上海を中心とする近代中国史の研究者である。本文五七一頁という堂々たる分量のみならず、二段組二六頁に詰まった日本語、中国語、英語、韓国語による文献一覧を眺めれば、著者の熱量も知れる。近代を特徴づける国民料理の形成史をはじめ、外来たる中国料理が受容されていった過程を跡づける労作である。各地で発掘した料理書の履歴とともに、中国料理店の興亡が経営者や料理長の個人史と重ねて語られる。
注目すべきは、戦争と食の関係性である。日中戦争によってアジアの多様性に気づかされた米国市民は、連合国軍として日本と戦った中国の料理を支持した。国民政府の臨時首都となった重慶には、米兵相手に本場サンフランシスコ仕込みのチャプスイを謳うレストランまで登場した。
はたしてフィリピンのチョプスイは、米軍が持ちこんだものなのか? 同国と米国の関係性を考慮すれば、その蓋然性はかなりのものだ。本書は、その可能性をにおわせつつも、明言を避けている。確たる史料がないためである。
その慎重な学問的姿勢に共鳴しつつも、敢えて大胆な可能性を提示しておこう。インドネシアのチャプチャイ(雑菜)と米国のチャプスイ(雑砕)は、表記が語るように異なる歴史経験したのだろう。だが、米国がやってくる二〇世紀初頭以前のフィリピン諸島にチャプチャイ風の料理がなかったとも思えない。チョプスイなる名称は、フィリピン版チャプチャイのクールな名称として定着したのではないか。米国の圧倒的な存在感ゆえのことだ。
もっとも、味わう主体たるフィリピン人やインドネシア人からすれば、チョとチャという雑の発音の差異も、砕と菜が示唆する相異も、さほど重要ではなかったろう。ここが料理史研究----とくに大衆料理のそれ---の泣きどころでもあるし、眼のつけどころともなる。