Symposium 公開シンポジウム

食の文化シンポジウム2014
「食と信仰のかかわり」-東西世界でのさまざまなかたち-

2014年10月15日(水) 13:30 ~ 17:00

テ ー マ 「食と信仰のかかわり」-東西世界でのさまざまなかたち-
募集人数 200名(申し込み先着順)
締め切り 募集終了
参加費用 無料(事前申し込要)
会  場 伊勢シティホテル 平安の間 三重県伊勢市吹上1-11-31
主  催 三重県、公益財団法人 味の素食の文化センター
後  援 味の素株式会社
テーマ「食と信仰のかかわり」
-東西世界でのさまざまなかたち-
その昔、御食(みけつ)国(くに)と呼ばれた伊勢・志摩。やがて伊勢参りが盛んになると、訪れる人々をもてなしたのもその豊富な食材だった。考えてみれば食と信仰は「生命(いのち)や生活」をめぐって深くかかわりあっている。それは日本だけのことではなさそうだ。本シンポジウムでは人間にとって根源的な営みである食と信仰について、ユダヤ教やヒンドゥー教などの例にも触れながら、食文化の視点に立って幅広く考えていきたい。
第一部 基調講演
「日本の米と信仰」原田信男氏(国士舘大学21世紀アジア学部教授)
第二部 パネルディスカッション
コーデイネーター:南直人氏(京都橘大学 文学部教授)
パネリスト   :市川裕氏(東京大学大学院 人文社会系研究科 教授)
         太田光俊氏(三重県総合博物館 学芸員)
         小磯千尋氏(大阪大学外国語学部非常勤講師)
         原田信男氏(国士舘大学21世紀アジア学部教授)

今回のシンポジウムは昨年度の食の文化フォーラム「宗教と食」を基に企画されました。
また、食の文化フォーラムで論議された内容は書籍として刊行されています。

REPORT

食の文化シンポジウム2014
「食と信仰のかかわり」

今回は三重県のご協力を得、神嘗祭(かんなめさい)でにぎわう伊勢市を会場に開催されました。御食国(みけつくに)と呼ばれた伊勢・志摩は「食」に、ゆかりの深い土地柄で会場は食文化に関心の高い参加者で一杯となった。原田信男氏による基調講演は「日本の米と信仰」。続くパネルディスカッションでは南直人氏をコーディネーターに、市川裕氏、太田光俊氏、小磯千尋氏、原田信男氏をパネリストにお迎えし、専門の立場からのご発表と、活発な論議で会場は熱気に包まれました。

 

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基調講演『日本の米と信仰』 国士舘大学21世紀アジア学部教授  原田信男氏

伊勢は稲作と関係の深い神様をおまつりし、米の信仰の中心地です。 日本人にとって米は信仰そのもので、力の源泉とされてきた。味噌、醤油の原型はもともと魚を発酵させた魚醤が始まり。この文化が北上し揚子江のあたりで大豆に出会い、できあがった調味料が穀醤と言われる味噌や醤油です。 中国では、北は小麦と羊や牛、南は米と魚と豚となります。これが稲作地域の一般的な形態。日本は豚を落としてしまいました。日本の米文化は特異なものとなったわけです。弥生時代になって水田を作り始めると田の神の信仰が始まり東南アジアの稲作儀礼では動物を殺して神にささげることがおこなわれています。しかしその信仰を日本人は否定し始めます。肉食を禁止したのではなく、稲作がうまくいくように殺生を禁じたものと考えるべきだと私は思っています。米中心の体制は江戸時代の石高制で実現するのですが、中世の時代は米が十分いきわたらずに、肉を食べる必要があったのです。肉はけしからんと言って、米を食べていたのは上流の人、中流下流の人は米を十分に食べられなかったのです。  仏教の教えには殺生戒(肉を食べてはいけない)があるので精進料理が出てくる。これを伝えたのは、中国に行って禅宗を学んできた栄西や道元です。 道元は日本で最初に食のことを考えた思想家でした。道元は「典座教訓」と「赴粥飯法」という2冊の本を書きました。対極に位置したのが親鸞。道元が自力本願であったのに対し親鸞や法然は他力本願でした。道元は上級武士の信仰を集め、法然や親鸞は中下層の農民を布教の対象としていた。それらの人々は米が十分に食べられないので、魚や動物の肉をとって食べる、それが現実であった。法然の「百四十五箇条問答」があり弟子の親鸞は更にそれを発展させた浄土真宗をつくるが、親鸞は肉を食べて生活をしている人々をかなり見ている。そういう人を救う手だてはないかと模索します。これは、見=自分の為に殺されるところを見た動物の肉、聞=自分のために殺された肉であることを聞かされた肉、疑=自分のために殺されたのかもしれない肉。この「見、聞、疑」の不浄肉は食べてはいけないがそれ以外の肉は浄肉だから食べても良いという考えです。その親鸞の教えを唯円という弟子が歎異抄という本に書いています。いわゆる親鸞の悪人正機説という「善人なほもて、往生をとぐ、いわんや悪人をや」つまり善人が往生できるのであれば悪人が往生できないはずはない、というものです。   

この悪人は犯罪人ということではなく、この時代の悪というのは商人と漁師をさします。動物をとったりすることは悪行だと言われているが彼らはそういう環境におかれ仕方なくそれをやっているのだと。そういうかたちで肉食をする人を救おうとしたのが親鸞の悪人正機説です。道元と親鸞はまったく違う方向から米と肉の現実的な問題を見据え、それを哲学的に解釈し宗教をつくりあげていきました。これが江戸時代になると次第に払拭されてきます。

安藤昌益は高度な思想家と思われていますが、かなり土俗的でもあり米を重視した思想家で、「人間は米から生まれた」と書いています。明治政府は北海道に屯田兵を入れますが、田んぼを耕す農民兵ではなく畑を耕すためだった。中山久蔵という人が明治6年に「赤毛」という耐寒性の強い品種で北海道でも稲作ができることを示し、一気に広まります。しかしそうした歴史の中で肉を食べなければならない人がいて、そういう人を救おうとした宗教家がいたということで私の話を終わらせていただきます。

 

 

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① パネルディスカッション・コーディネーター:南 直人氏
(京都橘大学教授:専門分野 西洋史学、食文化研究)

 パネルディスカッションでは南直人先生をコーディネーター役にユダヤ教、ヒンドゥー教、神道の事例が各パネリストから紹介され、副題にある「東西世界でのさまざまなかたち」が浮き彫りにされていった。

 

 

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②パネルディスカッション・パネリスト:市川 裕氏
(東京大学大学院教授:専門分野 宗教学宗教史学、ユダヤ教)

 

「信仰」という言葉よりも「世界観」という言い方がピッタリするように私は思います。
一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の中ではユダヤ教の戒律が一番厳しいのですが、食と「世界観」のかかわりにおいて、「食べる」ということがどのように一神教で考えられているかをみていきましょう。 今日は伊勢の神嘗祭の日ですが、これは収穫した米を神にささげ、感謝する大切なお祭りです。実はユダヤ教にもそれに相当するお祭りがあります。大麦が収穫された春に行われる「過越しの祭り」です。ユダヤ教における収穫祭ですが、このように一神教においても日常の食べ物と世界観とは深く関わりあっているのです。

旧約聖書の申命記に「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とあります。ここには二つの意味があります。一つは「生きる上で食べることは必要不可欠である」ということ、そしてもう一つは「しかし人間にとってそれだけでは不十分である。神の言葉が必要である」というのです。

神の言葉は預言者を通じて人間に伝えられます。ユダヤ教のモーセ、キリスト教のイエス、イスラム教ではムハンマドが預言者です。唯一の神は預言者を通じて食の戒律も規定しています。ユダヤ教のコーシャー、イスラム教のハラールがそれです。

コーシャーは「①血は命であるから、食べてはならない。②反芻せず、ひづめが割れていない生き物は食べてはならない。(豚はだめ)③ヒレとウロコのない魚は食べてはならない。④子ヤギの肉を母の乳とともに料理してはならない。⑤過越し祭の期間中は、発酵したパンを食べてはならない。」と教えています。ここにはいくつかの原則が見られます。「①食べてはいけないものが存在する。(野菜と果実には制約はない)②禁じられた調理法がある。③祭りに関係した規定がある。④貧しさへの配慮がある」などです。貧しさに対する配慮は一神教に共通する考え方ですが、特にユダヤ教ではその離散と迫害の歴史から、「貧しさは自己責任ではない」との基本理念があり、慈善行為はもっとも重要な戒律とされ、貧者は共同体全体でケアされます。

 貧しさへの配慮は別としても、こうしたユダヤ教の食の戒律(食文化)を知ると、「不自由ではないのだろうか」と考えてしまいます。それは自分の文化との比較をしているわけですが、このように、文化の違いや特徴を理解したり、自分の食文化を説明し、さらにはそれを見直すといったことが、生きている意味を考えるきっかけになるのかも知れません。

 では戒律とは何のためにあるのでしょうか。それは超越的な存在である神との関係において、人間の分際を知らしめることにあります。しかし信仰していない人に対する強制力はありません。

 

 

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③パネルディスカッション・パネリスト:小磯千尋氏
(大阪大学外国語学部非常勤講師:専門分野 南アジアの言語・文化・宗教)

インドは人口12億人の大国ですが、ヒンドゥー教徒が80%、イスラム教徒が13%います。とらえどころのないヒンドゥー教は宗教と文化の複合体、生き方、Way of Lifeとも言えます。

インダス文明が滅んでしばらくした後、紀元前1500年ごろ、アーリア人が侵入してきてバラモン教を興します。これは自然現象を擬人化した宗教でしたが、次第に難解なサンスクリット語を駆使したものになり、民衆の心は離れていきました。そのため仏教やジャイナ教が台頭し、これに対抗する形でバラモン教は様々な神を取り込んで多神教であるヒンドゥー教として発達していきます。宗教としては確立途中のものとも考えられており、聖典はありません。ブラフマン、ビシュヌ、シバなど3大神を中心にその化身もたくさんいます。信仰の中心をなす考え方は浄・不浄の概念で、カースト制もこれに関係しています。日々の祈り=プージャーにより神様をもてなし、神様を思うことを重視しています。

インドの食を大きく分けると北の小麦文化と南の米文化になります。ヒンドゥー教との関係でいえば、その最終目標である解脱にいたるために、食を自分で律していくことが求められています。不殺生、即ち「生き物を殺さない」ことと「浄性の高いものを食べる」ことが重要になります。

また不浄なるものに接したときにはその穢れを除くために、「水」が使われます。特に「ガンジスの水」は浄なるものとされています。  牛を食べないのは、牛が聖なるものだからです。聖なる牛の5つの分泌物とされる乳、ヨーグルト、精製バター(ギー)、尿、糞は食用や日常生活に広く利用されています。

唾液は不浄とされているので、食器にはバナナの葉や素焼きのカップを用い、使い捨てにされます。また調理場と洗い場が分離されているのも唾液に対する不浄感からです。唾液のほか不浄とされるものには、死、血(出産を含む)、汗、涙、垢などがあります。調理についても浄・不浄があります。油などを使って高温で調理した「パッカー」(煮えた、熟れたの意)は「カッチャー」(生・未熟の意)より浄性が高いとされています。

実は牛肉食がタブーになったのはかなり後のことで、バラモン教の時代には食べていたことが分かっています。ジャイナ教の不殺生の教えの影響が大きかったのです。

 

 

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④パネルディスカッション・パネリスト:太田光俊氏
(三重県総合博物館 学芸員)

お伊勢参りを全国に広げた「御師(おんし)」による参宮客の饗応について、その仕組みから、お神楽、もてなしの料理に至るまで、幅広い研究の一部をご紹介いただいた。なお現在、三重県総合博物館では「御師」の館やもてなし料理「神楽膳」が復元展示されている。

御師(おんし)は伊勢信仰を全国に広めた神職のことを言い、諸国を巡りお札を配るとともに、全国からの参宮者を宇治(内宮前の町)・山田(外宮前の町)で受入れてもてなし、祈祷もおこなった人々です。御師の館(宿坊のイメージ、御師の館に泊まることを「坊入り」といった)には参宮客が宿泊し、お神楽を奉納したり、神楽膳と呼ばれる豪華な料理を楽しみました。

江戸時代の宇治・山田での参宮客の食の特徴をまとめると①「本式の本膳料理であった。伊勢・志摩の豪華な食材が使用されていた。」②「貴人や神事に限定されていた白木膳と朱椀を使用。」

ということになりますが、次に神楽膳がどのように信仰とか、祈りに結び付いていたのか、どういう場面で食べられたのかということを見てまいります。

伊勢参宮の行程を確認するために、道中記や旅行案内記などいろいろと資料を見てあらためてわかってきたことがありました。寛政9年(1797)刊『伊勢参宮名所図会』を参考にすると:

  • 全国各地から宇治・山田周辺を目指してやってきた参宮客は新茶屋(明和町 宮川の渡しの前)に到着して宿に入ります。さきほどガンジス川の話がございましたが、宮川が一つの結界になっていて、そこに到着すると、御師の家来が挨拶にきて、食事の差し入れが届く。そして宮川を渡ると、御師の手代と会うことになります。
  • 宇治・山田に到着して、最初に行くのは二見浦の遊覧でした。ここでも清めをし、穢れを落として斎戒沐浴しました。
  • 御師の屋敷に到着。御師の格式は高いので、上座から歓迎の挨拶をしたようです。
  • 2日目に外宮参拝となります。帰ってきてから御神楽の奉納。この太々神楽の奉納がだいたい4時間。それから神饌を撤下されます。さらにその後で席を変えて神楽膳がでてくることになります。つまりお祈りが終わった後にでてくるお膳であったわけです。神饌の下には米俵がおかれていました。これは外宮の形式ですが米を大切にしていたことがよく分かります。
  • 内宮・朝熊(あさま)を参拝
  • ここから後はオプションになりますが、弥次さん、喜多さんが京都に行ったように西国巡礼にいった人々も多かったようです。伊勢参宮とは異なり、西国巡礼はストイックな旅だったと思われます。

伊勢参宮が日本の食文化に与えた影響という点を考えると

  • 料理が道中記に記され、献立が全国に持ち帰られて広まったこと。
  • 伊勢で日本料理の本式の膳を食べることは、江戸時代の人びとにとって重要な食体験であり、当時の人びとが共通に想起できる本式の料理だったと思われます。

御師制度は廃絶され、これにより神楽膳の儀礼的な意味もなくなり、今は料理自体も消えています。