公共財団法人 味の素食の文化センター

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名所江戸百景 びくにはし雪中

  • 絵師:-
  • 時代:安政五年(1858)

解説

比丘尼橋は、京橋川が外堀に出る河口に架かっていた橋である。現在の銀座一丁目辺りになる。絵の右側が外堀で、石垣が見える。橋の向こう奥に見えるのは、数寄屋町の火の見櫓である。橋の名は、「比丘尼」と呼ばれる私娼、「夜鷹」の溜まり場になっていたからといわれる。「山くじら」の看板は、「猪」などの肉を専門に食べさせる「尾張屋」の看板である。猪以外にも、熊や鹿、猿の肉もあったという。こういう店を「ももんじ屋」といった。江戸時代は、一般には肉食をしなかったものだが、病後の人が体の回復のために「薬ッ食い」と称して食べた。食べてみると旨いので、次第に病後でもないのに食べる輩が増えてくる。このように雪の降る寒い晩は、「牡丹鍋でも・・・!」ということになる。「猪鍋」を「牡丹鍋」ともいう。「牡丹に唐獅子」の洒落である。「鹿鍋」は「紅葉鍋」という。花札の「紅葉に鹿」からきているという。いやそうではなく、もっと品良く、「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の・・・」からきているともいう。右側の葦簾張りは、焼き芋屋である。看板に「○やき」「十三里」とあるのは、切らずに丸ごと焼いて売るので「○やき」、「栗より旨い十三里」、つまり「九里+四里=十三里」という計算である。さらに旨い「十三里半」という焼き芋もあった。これは、芋の本場の川越まで、江戸から十三里半あったからだともいう。絵の中央、比丘尼橋にさしかかる振り分けの荷を担ぐ商人は「おでん燗酒屋」であろうか。または、惣菜を売って歩く「煮売り屋」であろうか。この錦絵の改印(出版許可印)は「午十」で、すなわち安政五年(1858)10月頃に売り出された錦絵であることが判る。ここで、初代歌川広重は、この年の9月に、江戸で大流行したコレラで亡くなっている。その翌月の錦絵であるので、二代目歌川広重(襲名前なので「歌川重宣」のとき)の可能性もある。また、没後わずかひと月であるから、初代広重の遺稿がまだ残っていたとも考えられる。しかし、この錦絵を、初代広重の傑作と考えてもよいが、ここでは、二代広重の大傑作としたい。

管理No.:106

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