鰹節発祥の地、印南町を訪ねて その4

2013年08月22日(木)

REPORT

訪問3日目

 

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「印南町の和食文化を考える・意見交換会

~和食のユネスコ無形文化遺産化活動について知る~」

〈2〉地元活動例発表(午前の部)

 

的場先生の講演から休憩をはさみ、今度は地元活動の発表に移る。地域に出かけ、その地の「和食文化」を考える意味でも、地元活動の報告は中心的な位置づけとなる。では発表の一番手、坂下さんの登場(地元発表の進行は坂下さんが担当ですが、ここは紹介ナシで進行)。

 

◆「かつお節製造貢献者三人を生んだ印南」:坂下緋美さん(印南町文化協会会長)

 

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「皆さん、今日の勉強会は光栄の至りです。誰のおかげでしょう? そうです、角屋甚太郎さんのおかげです!」さすが、坂下さんのつかみはバッチリ決まった。

この角屋甚太郎を筆頭に、紀州印南三人衆について1日話すくらいのエピソードがあるが、と前置きし、そのエッセンスを軽妙に語りつむぐ。印南漁民の研究では、最初に井戸を掘った郷土史家がいる。文化協会の初代会長、二代会長さんなどで、せっかくの研究を埋もれさせないように自分はそれを受け継いでいるのだと。

江戸時代を通じ印南漁民が活躍しているが、初期の印南浦には、石橋五郎左衛門、戎羽右衛門、角屋甚太郎父子、中村屋次郎右衛門という豪商や船主がいた。例えば中村家は印定寺に観音堂を寄進している。

坂下さんは、江戸時代を三期に分け、アウトラインを示した。前期は元禄の頃(1690年頃)まで、角屋甚太郎父子が、土佐でのカツオ漁で活躍。二代目甚太郎は鰹節の始祖といわれる。中期は宝永の頃(1707年~)、森弥兵衛が鹿児島枕崎に鰹節の製法を伝える。後期は天明の頃(1780年~)、印南與市が千葉・伊豆へ鰹節(土佐改良節)を伝える。「すべて始まりは印南にある、と頭に入れて物語は展開します」。

 

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では、角屋甚太郎の物語を。印南では黒潮に乗ってくるカツオを追っていたが、和歌山沖の漁場から閉め出され、初代甚太郎は漁民を率いて九州に向かうなか土佐浦で豊富な漁場を発見、通い漁をして土佐で加工し、二代目甚太郎はその製法を発展させ今日につながる鰹節をつくり出した。土佐では鰹節考案者として「紀州甚太郎」の名が残る。

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その甚太郎が、郷土史家の地道な調査で角屋甚太郎とわかった。印定寺の過去帳を調べ上げ、宝永津波の十三回忌につくられた合同位牌、立派な夫婦位牌とつきあわせて印南の人と判明したのだ(九度山小学校の学習会とも重なるところ)。

そして、角屋を継いだ弟・甚三郎から数えて五代目の甚三郎の息子・与市が、奉公人のオサナとの仲を身分違いと裂かれ心中した「印南愛物語」をひと節。その後も角屋は土佐とのつながりを持ち、あちらで大切に守られている墓もあるとか。坂下さんは甚太郎の足跡を訪ねて土佐の方々とも交流を続ける(なんと心中話は劇にもなっているそうだ)。

 

続くは森弥兵衛、現在日本一の鰹節産地、鹿児島の枕崎に製法を伝えた御仁だ。紀州藩の了解なしに他国に技術指導などできなかった当時、なぜ?「薩摩藩が印南浦の高い技術に目をつけ要請した」「宝永の大津波で壊滅的な被害を受け森弥兵衛が印南への未練をなくした」「その状況で紀州藩も印南漁民を厳しく縛れなかった」のでは、と推察を語った。枕崎では、製法伝承三百年祭が行われ、印南と枕崎のつながりを中学の先生が芝居にしているのだと。これも凄いなあ。

しんがりは印南與市(土佐與市)。宝暦8(1758)年生まれで、本名は善五郎。豪商石橋家の系列と考えられている。紀州藩の掟など意に介さず、南房総や伊豆に鰹節の製法を伝えた。50歳頃、望郷の思い断ちがたく印南に帰るも、掟破りと追い返された由。でも、千葉の千倉にはその碑や墓があり、「わが身を犠牲にして広く世のため尽くした」人として崇められているという。印南三人衆の足跡を各地に追うことで、坂下さんは多くの出会いをし、交流の輪を広げている。

「津波に襲われ産業としては残されていないが、歴史を知ることは大切。印南の先人の心意気を今こそ心に刻みたい!」と結んだ。

 

◆「和食を山村行事から見て」:池上啓子さん(寺院関係/瀧法寺)

 

次に発表に立った池上さんは、霊験あらたかなお寺「おたきさん」(瀧法寺)の方で、文化協会の副会長でもある。山村の食を行事との関わりで語られた。

葬式では、少し前まで隣組や婦人会が寄り合ってみんなで二、三食を作っていた。30年以上前は車もあまりなく生魚もない。ご飯、梅干し、手作りこんにゃくや椎茸の煮物など主に精進料理で、かつて寺や公民館には備えられていた半月や四角の弁当箱に入れ、全員で食べた。現在は、料理屋の仕出しが一般的だが、負けないくらいの弁当(山村の産物入りの)を作る地域もある。ただし今は刺身がつくと。

秋祭りも賑やかだった。次の日が小学校の運動会と決まっていて、押し寿司・巻き寿司をたくさん作り、運動会でも校庭に敷物をしいてみんなで食べた。今は、子どもは給食で親と一緒に食べないと。祭りとセットの、皆でハレの食を囲む風景が失われたのは惜しいなあ。20年以上前は、御輿の担ぎ手のために、100~200人分作っていたというおにぎりも、現在は仕出しに置き換わってしまったようだ。

庚申供養はなかなか面白い行事だったようだ。神様のお使いのサル(申)が閏年に村を見に来る。水を大切にし農業に励んでいると報告してもらえるよう村人総出でする祭り。男女に役割があり、男は餅を搗いてぜんざいを、女は混ぜご飯やなますを作って、全員で食べる。邪気を払い五穀豊穣、家内安全を祈る行事。一家で一人、パック弁当となった現在は寂しいと。

七草粥は正月七日の行事。20年前からは、寺の行事として行っていると。七草をまな板で叩き、大きな鍋で粥を作り、無病息災を祈ってみんなで食べる。

最後に、「和食と言うほど本格的ではないが」と断って、交通の便が悪かった地域ということもあり、ゴンパチ(イタドリ)の塩漬けやゼンマイなどの保存食を今でも作ること、贅沢なものに鮎だしそうめんがある、と語られた。これって、ユネスコ無形文化遺産に登録申請した「和食」そのものですよ!

 

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◆「旅館の食事に携わって」:辻井和吉さん(旅館関連/辻井旅館)

 

続いては、切目崎の突端にある辻井旅館の辻井さん。商売を始めて四十数年、とにかく旅館は「おもてなし」から始まる、と強調。お客さんを迎えたとき、最初のおもてなしが悪いと、料理がどんなによくても満足してはもらえないと。例えば一輪の花、一幅の絵、置物など、まず季節を感じていただき、それを楽しんでもらってから、お食事へいざなうのだと。

幸い印南には、伊勢エビやアワビ、カツオ、イサキほか新鮮な海幸と、それを引き立てるワサビ、また椎茸、メロンなどなど、特産の農作物も豊か。この恵みを生かし、地元の食材を使った料理を、また温かい物は温かく冷たい物は冷たく、と心がけている。それを美味しく召し上がり、気分よく過ごしていただくためには、接客の態度も重要。

今お客さんのニーズも様々で、「新鮮で美味しいものを安く」という要望はもちろん、アレルギーのある方もかなりいる(食べられる食材を持参してもらい料理することもあるとのこと)。年配の方なら魚や野菜中心だが、若い方はフランス料理やイタリアンを好まれる。最近の傾向として、旅館の食事でも創作料理が増えている。自分のところは経験がないので難しいが、勉強して挑戦したいと語られた。増加傾向という朝食のバイキング形式は、無駄になる料理も作らなければならず、小さな旅館では大変だし何よりもったいない、とも。

2015年に開催される和歌山国体に向け、訪れた方にこの地方の食材を使った食事を、との計画もあるとか。まだ具体的にはなっていないそうだが、どんなメニューができるか楽しみだな。

料理に携わる者として、お客さんからの「美味しかった」の一言は何よりの言葉、励みになる。基本の手洗い・衛生には十分注意し、安全・安心に努力したい。最後に再び「おもてなし」に言及、「何年たっても難しい。死ぬまで勉強と思っている」と締めくくった。

辻井さんのお話も、季節感、美意識、おもてなしと、「和食」のあり方そのものだなあ。

 

◆「『印南うどん』に取り組んで」:東 岩雄さん(農業委員会会長)

 

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午前の発表を締めるのは東さん。薬草研究会もやっていて、この時期は忙しい真っ最中と言って話し始めた。

まずは、そもそものいきさつを。実は「印南うどん」になったのは途中からで、最初は単に手打ちうどん。自分たちが食べたかったのと、活動資金が欲しくて始めた。

この地域は水害が多く、農業の団体で河川改修に取り組んできたが何度も壊れてしまう。そこで若い我々が取り組もうとなったが、グループの運営資金がない。それで、手打ちうどんとなった。もう一つ、ある養蜂業者の方(大阪で流行っている手打ちうどん店を経営されていた)に教えを請えたこともある。道具もすべてなく、粉も市販の小麦粉を配合しての、ずぶの素人のチャレンジ。粉を捏ね、足で踏んでコシを出す。そのうまさが格別だった。18人全員が一通り覚えたが、続いた者は少しだけだった。

でも、うどんは着実にファンを増やしたようだ。産業祭りで薬草うどんに挑戦し、茹でたら色が変わってしまったという失敗談もあったが、せっかく食の祭典に出すのだからと、ネーミングも「印南うどん」と決まった。「印南」の名を冠するからには特徴を出そうと、粉もうどん専用のものに変え、だしも煮干しから、鰹節(発祥の地として)と昆布をふんだんに。できたら地元のかまぼこと揚げを。こだわりの「きつねうどん」になった。うどんそのものは、200食(2回目)までは手打ちできたが、300食(3回目)にもなると難しく、いまは手打ちに近い形で業者に依頼している、と。

とにかく、美味しいと言ってもらえるのが嬉しい。夏場は冷やしのぶっかけ風もあるとか。聞いただけで食べたくなるなあ。うどんを打ち始めて10年くらいを契機に、慰問をかねて高齢者施設での「印南うどん」の提供も始めた。釜揚げのそのままで、お年寄りは大喜びだという。コシが自慢のうどんをミキサーにかけて嚥下食にもする。それでも、だしの旨さ、うどんの旨さは伝わると思うなあ、きっと。

最後、農業委員会の立場からと、TPPや消費税の問題にも言及。「印南は鰹節もそうだが、技術革新ができる町。これまでも、ハウスでの太陽熱装置や電照栽培、トマトの赤糖房や優糖星などの優良品種開発など、農業技術の革新で、外国のものを迎え撃ちたい」と力強く語った。(その5に続く)