生業社会の食文化(4)梅崎昌裕

飲むパンダナス

夏のビールと冬のおでん
 
お祝いの席には尾頭付きのタイ、暑い夏の夕方にはビール、寒い冬にはおでん、山頂のテントではウィスキー、そしてお正月には日本酒と、それぞれの「場」には、ふさわしい食べものや飲みものがある。このなかには、「お祝いの席では尾頭付きのタイを食べるものである」というように、それを実践するかどうかは別にしても、しきたりとして多くの人が共有しているものもあれば、「山頂のテントではウィスキーを飲むものである」などというきわめて個人的な思い込みにすぎないものもある。いずれにしても、食べ物は多かれ少なかれ「場」と結びついて存在している。
 
 
嗜好品としての「飲むパンダナス」
 
パプアニューギニアの食べものや飲みものも「場」とむすびついているかなと考えていて、「飲むパンダナス」のことをおもいだした。
セピック地方の調査村のことばでアランと呼ばれるその液体は、初めての人には相当不気味にみえるに違いない。黒い土器の底に、真っ赤でどろどろした液体が黒い種と一緒にたまっている。それを村人たちはヘラですくって口に入れ、種を床に敷いた樹皮の上に吐きだす。皆で同じ樹皮に種を吐きださなければならないので狭いところにたくさんの男たちが座り込むことになる。あげく吐きだされた種を犬がなめにくる。おまえも飲めといってヘラをさしだされたときは、どうしようかと思ったものだ。
 
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パンダナス(Pandanus conoideus)の実
 
パンダナスは、和名でタコノキあるいはアダンとよばれる植物の属名である。世界に六〇〇種以上あるといわれ、私が「飲むパンダナス」と呼ぶのはPandanus conoideus という種である。高さ5~10メートルになる樹木が、全長一メートル、重さが一〇キロほどの赤い実をつける。実の表面には、ひまわりの種を小さくしたような形の赤い種子がびっしりならぶ。この実を適当な大きさに切り分け、中央の木質部を除いてから三〇分ほど煮る。ひとつひとつの種子をバラバラにとりはずし、ヘラで混ぜて、種子の表面にある赤い部分をジュース状にする。そこにバナナの皮を焼いて作った灰で味付けしたものが、「飲むパンダナス」である。
 
 
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パンダナスを切り分け、中央の木質部を取り除く
 
 
「飲むパンダナス」は、赤い色をしていることから、パプアニューギニア低地では男性の活力の源である血を象徴し、男性の体を強くする食べものであると解釈されている。ここでは、視点をかえて、「場」とのむすびつきから「飲むパンダナス」を考えてみたい。
 
 
 
チョイト一杯のパンダナス
 
パンダナスは嗜好品のようなものであり、私の観察によれば、飲むにふさわしい「場」があるようにおもう。それは、たとえば、夕刻、涼しい風の吹く頃である。雨が降っていない夕方には、村の男は水浴びにいく。水場は、村から三分ほど歩いた場所にある。バスタオルをもち、シャツを脱いだ身軽な格好ででかける。水浴びから戻った男たちはそのまま村の真ん中にある集会所の軒先にあつまり、たき火をおこして肌をあたためる。集会所の壁には村の誰かが採ってきたパンダナスの実がぶらさがっており、皆でそれをながめていると、パンダナスでも飲むかという「場」ができる。
 
 
「場」ができると、そこにいた男たちは、あたりで遊んでいる子どもたちに命じて、土器や薪、タロイモ、バナナを持ち寄る。土器は口径が五〇センチ以上もある大きなものをつかう。イモやバナナの皮をむき、パンダナスを切り分け、それらを土器につめて、水を加え、バナナの葉でしっかりフタをして、蒸し焼きにする。ステンレスの鍋ではなく、近くの村で生産される土器をつかうのが、パンダナスを調理するときの作法である。
 
 
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バナナの葉で土器にしっかりフタをして蒸し焼きにするのが、おいしい「飲むパンダナス」の料理法である
 
 
パプアニューギニアの人々がパンダナスを口にいれる動作をさす言葉は、そのまま日本語に訳せば「飲む」となる。しかしながら、「飲むパンダナス」は、鮮やかな赤色のケチャップ状の液体が種子と一緒になって土器の底にたまったものであり、私のもつ「飲む」イメージとはだいぶ違う。煮えたパンダナスを土器の中でかき混ぜて準備ができたら、ひとりか二人が土器のそばに座り、土器を抱え込みながら種子と液体を一緒に口に放り込む。種子のまわりについた液体を飲み込み、種だけをペッペとはき出す。クリームを入れたトマトソースのような口当たりで、わずかに渋く、オイリーである。慣れるとおいしいもので、私にとって村でのひとつの楽しみの味だった。
 
 
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ジュースを飲んで、種をはきだす
 
 
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集会所のテラスでパンダナスを飲む男たち
 
 
自分が飲む順番がくるまで、バナナとタロイモを食べながらおしゃべりをする。お酒を飲むときに肴がほしくなるのと同様に、パンダナスを飲むときには、バナナとタロイモが欲しくなる。バナナとタロイモは、「飲むパンダナス」と別に食べてもいいし、「飲むパンダナス」を塗って食べるのもなかなかの味である。特に、縦に二等分したバナナとタロイモに「飲むパンダナス」を塗って貼り合わせ、それを「飲むパンダナス」にくぐらせて食べるのが最もおいしいとされる。
 
 
月夜のパンダナス
 
パンダナスを飲むもうひとつのふさわしい「場」は、夜更けの団らん時である。電気のない村では、村人は、夕食は明るいうちに準備をはじめ、割と早い時間に食べ終わる。食後、暗い部屋ではすることもないので、ふつうはそのまま寝てしまう。ところが、満月の静かな夜は特別で、外にでておしゃべりをすることがおおい。電気のない村での満月は本当に明るく、懐中電灯をもたなくても隣村まで歩いていけるほどである。月に照らされる村は、たいへん美しいものだ。
そんなとき、「そういえば、おいしそうなパンダナスがあったね、あれを家族で飲もうか」という「場」がつくられる。
どうして夜更けに家族だけで楽しむパンダナスのことが私にわかるかといえば、静かな満月の夜に、ケロシンランプの暗い光でノートの整理などをしていると、村の子供が僕の所へやってきて、「うちでパンダナスを煮たから飲みにおいでよ」と誘いにきてくれるからである。その家に行くと、たいていは呼びにきてくれた子どものお父さんが、たき火のそばで煮えあがったパンダナスを土器の中で混ぜており、お母さんとほかの子供たち、そして私のように招待された人がそこを囲んでいる。
夜更けの団らんでパンダナスを飲むときは、食後でもあり、ふつうバナナやタロイモは食べない。小さめの土器につくった「飲むパンダナス」を、ひとりずつ口に入れては種をペッペとやる。小さな子供も器用にペッペとやり、あとは火を囲んでおしゃべりとなる。子どもがネズミを捕まえたとか、畑の帰りに極楽鳥をみたなどの話をして、夜更けの「飲むパンダナス」をめぐる「場」は、いつもおだやかな雰囲気だった。
 
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ガルフ州では、種子を取り除いたパンダナスジュースがつくられる。12月から3月にかけてのごちそうである。(撮影:田所聖志)
 
 
「場」と食文化
 
食べものや飲みものが特定の「場」と結びついていることは、その食べもの・飲みものを彩る大きな要素だと思う。お正月という「場」にふさわしいのは、昆布巻きと紅白なます、クワイにお雑煮というように、明文化されたしきたりとして、食と「場」の関係が整理されているものもあれば、個々人の経験によって形成されてきたイメージを介して食と「場」が結びついている場合もある。
たとえば、私がおでんという食べ物から想起するのは、その具体的な味や色合いに加えて、冬、湯気、家族、つつきあうなどの「場」のイメージである。また、サンマは、七輪、煙、秋、太平洋などの「場」のイメージが付随してはじめて、サンマという食となる。私たちは、それを食文化とよび、食べること飲むことは、単にエネルギーと栄養素を摂取する行為ではなく、飲食を通じて人生を楽しむことなのである、などという。
 
そういう意味では、パプアニュ―ギニアで私がみた「飲むパンダナス」は、友人や家族とおだやかにすごすイメージをともなう食べものであり、人々の生活のなかでも特にうつくしい「場」を彩るものである。生業社会の食文化は、明文化されていないために単純なものであるかのような印象をもつ人もおおいが、ていねいに観察すると、意外にこまやかなものなのだ。
 
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「男の家」のテラス。今日は、米と缶詰のごちそうを皆で食べる