包丁式

総持寺での包丁式

酩酊先生の御座所のある大阪府茨木市に、西国二十二番札所の総持寺がある。この寺で、毎年の四月十八日に「山陰流包丁式」がおこなわれる。今年もそれを見物に出かけた。
山陰流の料理師範が、烏帽子、直垂 の平安時代の装束を身にまとい、右手に包丁、左手に真魚箸 をもって、雅楽の調べにあわせて、魚体にはいっさい手をふれずに、コイを切りさばく儀式である。巨大なまな板に、ウロコや内臓を取りさったコイ一匹をのせて、胴切りにするだけのことであるが、箸や包丁の使い方や、ちょっとした身振りにもさまざまなきまりがあり、途中で見栄を切る動作などもはさまり、三〇分もかかる演技であった。
 
寺伝によると、総持寺は平安時代の貴族で料理の名手であった四条中納言・藤原山蔭が八七九年に建立した寺院であるという。包丁式がおこなわれる四月十八日は山蔭の命日である。
山蔭が仕えた光孝天皇は、
 「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」
という、「百人一首」の和歌をつくったことで知られているが、皇太子の時代から自炊をし、即位したのちも料理つくりをする趣味があったそうだ。宮中の料理つくりは、身分の低い者がする仕事とされた時代に、天皇みずから厨房作業に従事したのである。炊事の煙で天皇の居室が真っ黒になったので、「黒戸の宮」とよばれたという。
光孝天皇は、料理好きの公家である山蔭に命じて、宮中料理の調理法や作法をととのえさせた。このとき、貴人や神仏に料理を捧げるときに、魚鳥を切りわけて見せる儀式である「包丁式」の作法も確立したといわれる。山蔭が得意としたのは、コイを切ることであったという。海産の鮮魚が入手できない京都の宮廷では、コイが最高の魚とされていた。
山蔭を始祖とする宮廷料理人の流派を「四条流」というが、室町時代、江戸時代になるとになると「大草流」、「進士流」、「園部流」、「生間流」などの幕府や大名の台所をとりしきる料理人の流派も出現した。
これらの流派では、味にはなんの関係もない魚鳥を切りわける儀式的なショ-である包丁式が、料理秘伝の奥義とされ、それを演じることが料理人にとっての最高の名誉とされた。そこで、各地の社寺の神仏の前や、格式のたかい料亭で包丁式を演じることが、日本料理の各流派によってなされるようになった。 
藤原山蔭は、総持寺のほかに、京都の吉田神社も建立した。吉田神社の境内には、「料理の神さま」とされる山蔭神社があり、そこでは生間流の包丁式がおこなわれる。
 
総持寺の本尊は、木彫の千手観音像である。この本尊を彫刻する仏師に、山蔭は毎食ごとに異なる献立の手づくりの料理を供し、それが千日間つづいたと伝えられる。それを山蔭の「千日料理」という。当時の正式の食事は朝夕二回であったが、クッキングブックのない時代に、異なる献立の食事を二千回思いつくことは「料理の神さま」でなくてはできないことであろう。
酩酊が大学院の学生の頃、京都郊外の宇治川のほとりにある別荘の番人をしたことがある。そこに同居をしたら、下宿代がいらないということで、友人が転がりこんできて、一緒に暮らすことになった。
わたしが料理つくりに興味をもちはじめた頃のことである。友人に「飯と汁以外の料理は、朝夕の食事には毎回ちがったものを食わせてやる」と宣言した。古本屋で買ってきた婦人雑誌の付録の献立集を参考にして、料理つくりをすることが三ヶ月続いた。これが酩酊の「百日料理」であるが、酩酊神社は建立されそうにもない。