せんべい談

中国杭州市の煎餅店。スープの素をふりかけているところ。その脇にあるのは二つ折りにしたもの。

関東育ちの酩酊先生が、関西に住むようになって、とまどったことのひとつに、「せんべい」のちがいがある。関東でせんべいといったら、ウルチ米の粉を円盤状に加工して乾燥させ、醬油をつけて焼いた塩せんべいのことである。醬油の町である千葉県野田市で少年時代を過ごした酩酊にとって、せんべいとは醬油のこげた香りがする干菓子であるべきであった。

ところが、関西でいうせんべいは、水溶きしたコムギ粉に甘味を加えて焼いた「瓦せんべい」のことである。京都名物の八ツ橋も、せんべいの一種とされ、関東でいうせんべいは、「おかき」の部類とされる。「欠き餅」に語源をもつとされるおかきにはさまざまな形状があり、「あられ」のように小形の製品もおかきといわれる。関東のせんべいがウルチ米であるのにたいして、おかきはモチ米を原料とする。


漢字で「煎餅」(ジェンビン)と表記するので、モチ米でつくるおかきのほうが、漢字の意味を正しくあらわしていると思われるかもしれない。しかし、モチゴメを搗いてつくる食品を「餅」という文字でしめすのは、日本独特の用法である。日本の「モチ」にあたる食品を、中国語では「年糕・粘糕」(ニェンガオ)と表記する。

さらに、ややこしい漢字の詮索をしてみよう。中国で「麺」(ミエン)という文字は、日本でいう麺類ではなく、コムギ粉のことである。コムギ粉を紐状にのばした日本でいう麺類は「麺条」(ミェンチャオ)という。「餅」(ビン)とは、コムギ粉食品の総称である。

「煎」(ジェン)という文字は、漢方薬を煎じるのではなく、鉄板や鍋底に食物を置いて焼くことを意味する。したがって、中国で煎餅といったら、コムギ粉に水を加えてのばし、鉄板で焼いた食品のことである。中国古典での煎餅という文字の初出は、六世紀中頃の『荊楚歳時記』と『太平広記』にもとめられる。

中国の唐代における煎餅のつくりかたを、弘法大師が伝えたという説がある。それは、物事のはじまりを、なんでも弘法大師に起源するという大師説話のひとつとして解釈しておこう。


空海が唐から帰国する以前の天平九(737)年の『但馬国正税帳』のなかに、煎餅の文字があらわれ、そこには別筆で伊利毛知比ということばが書きくわえられている。煎餅を大和ことばで「いりもちひ=煎り餅」と表現したのであろう。10世紀前半に成立した『和名類聚抄』には、「煎餅という文字のしめすように、コムギ粉を油で熬つたものである」といった意味の説明がなされている。

江戸時代中頃までは、せんべいはコムギ粉を原料とする食品であった。江戸の市街にもコムギ粉のせんべいを売る店や露店があり、大田南畝が「まんじゅうせんべいはあまいもの」と記しているように、甘味のする瓦せんべいが主流であった。

慶長八(1603)年に日本イエスズ会が刊行した『日葡辞書』の邦訳版に「Xenbei 米を原料とした一種の聖体パンに似たもの」とあるので、江戸時代初期にはコメのせんべいもあった。おそらく幕末頃に、関東の濃口醬油をコメせんべいに塗って焼くことが流行し、塩せんべいが関東地方に普及したのであろう。


日本のせんべいが干菓子であるのにたいして、現代中国のチェンビンは焼きたてを食べるクレープ状の軽食である。写真は浙江省杭州市の店で撮影したものである。麺棒で30cm四方にのばしたコムギの練り粉を、油を敷いた鉄板にのせ、生タマゴ、ニラと搾菜(ザーツァイ)のみじん切りを塗り、インスタントスープの素をふりかけて、軽く焼いてから、封筒状に折りたたんで供する。出勤途中の露店でチェンビンを食べて朝食とする人もおおい。